2014年07月18日

大学受験に英語文法の参考書は必要か

まず必要ありません。
特に高校で買わされるような類のものは、
害にこそなれ、益にはなりません。
それらは、出版社の利益のためにあるのです。

これは主観ではありません。
一昔前なら常識です。
学校に出入りする業者の店舗前に、よく議員の看板が置いてありますが、
それが何を意味すのか、中学生以上なら気づいてほしいものです。

以前は学校で参考書を買わされるなどということは一切ありませんでした。
当時、まだ優秀だった頃のZ会旬報にも英文法の参考書など要らないと記載されていました。
どうしても持っていたい人は新自修英文典などを薦めていました。
現在復刻版が出ています。

参考書に時間を掛ければ掛けるほど、必然的に
教科書を読んだり、辞書を引く回数が減ります。
基礎学力が低下し、思考力が落ちます。
仮に暗記できたとしても、入試では通用しません。

もっと教科書や辞書を読みましょう。
入試は基本的に教科書に載っているもので十分です。
参考書より、いい辞書を選んで何度もひきましょう。

あとは過去問をやってみればいいのです。
模試は要りません。入試とは別物だからです。
自分が受ける大学の入試出題者の思考に合わせるべきです。
教科書と入試問題の間に何かをやる必要などありません。

受験参考書は利益が目的ですから、多くは盗作です。
筆者自身がよく理解できていないために、盗みきれていません(笑)。
そういった意味でも参考書は害にこそなれ益にはなりません。

大学に入って、英語をより深く勉強したい人には、
「現代英文法講義」 安藤貞雄著などはお薦めです。
大学生になれば高校のとき買わされた参考書がいかにお粗末だったかが分かることでしょう。


 



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posted by sakai shinji at 14:20 | Comment(0) | オススメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月12日

Polestar E.C.2 Lesson 10

 ドナルド・キーン−日本文化の窓を開く
 あなたはどんな日本文化を外国の人に紹介したいだろうか?
 外国についてほとんど知らずに一生を終える人もいる。
しかしながら外国の場所に魅了される人もいる。
ここにそのような(外国に魅了された)人の話がある。
1
 2011年4月、アメリカ人の著名な日本文学者であるドナルド・キーンは、世界中のメディアが注目するようなことを述べた。
コロンビア大学、そこで彼は56年間教鞭をとったのだが、その最終講義で、彼は日本に移住し、残りの人生をそこで過ごすと述べた。
2011年3月に起きた大震災の後、多くの外国人が、日本から離れていた、それで彼のコメントは多くの人を驚かせた。
 ドナルド・ローレンズ・キーンは1922年、ニューヨークで生まれた、そして若干16歳でコロンビア大学への入学を許可された。
数年後、彼がニューヨークの本屋で本を眺めていると、アーサー・ウェーリーによる『源氏物語』の訳本に出会った。
彼はその本に描かれた遠く美しい世界にすぐに魅了された。
その後すぐに、彼は日本語の勉強を始めると、和漢混交の精巧な表記体型に魂を奪われた。
 その当時、角田柳作という日本人学者が、日本思想史の講義を始めた。
キーンは、その講義に姿を見せた唯一の学生だった。
しかし、角田は、1人いれば十分だと言って、講義を続けた。
キーンは、黒板一杯に書かれた漢字をすべて、一生懸命ノートに写した、そして時が経つにつれ、彼の日本に対する関心は深まった。
2
 1941年12月、日本は真珠湾を攻撃した。
キーンは、アメリカ海軍に日本語学校があることを知ると、海軍への入隊を志願し、許可された。
11か月間の学習を経て、彼は真珠湾に派遣され、日本人捕虜の文書を翻訳する仕事を与えらた。
 ある日、キーンーは亡くなった日本人兵士たちの日記が入った大きな木の箱を偶然見つけた。
彼は、彼らの最後の辛い日々を記した文が、とても感動的であるとわかった。
それらの日記の中に、日記を見つけた人はそれらを自分たちの家族に返してほしいというメッセージがあった。
彼はその願いを尊重しようと決め、それらの日記を机に隠した。
しかし、とても残念なことに、日記は後に上官に見つかり、取り上けられてしまった。
 キーンが広島への原爆投下を知ったとき、彼はホノルルにいた。
その直後、終戦が宣言された。
キーンが日本人捕虜たちと話していると、彼らは日本に帰りたいと心から望んでいるのに、そうすることがとても恥ずかしいと感じていることに気づいた。
彼らは捕虜になるのは不名誉なことで、死ぬ方がいい(名誉である)と信じ込まされていた。
キーンは彼らに、それは間違っていて、日本に戻って日本の再建に役立つべきだと言った。
3
 やっと戦争が終わると、キーンは司令官によって中国へ送られた。
彼は、アメリカへ帰る途中、1通間ほど日本を訪れることにした。
1945年の12月、彼はそこ(日本)に着いた。
彼は廃墟と化した東京を見て衝撃を受けた。
しかしながら、彼は日本人の姿勢に感銘を受けた。
悲惨な状況にもかかわらず、日本人は堂々とそして礼儀正しく振る舞い続けていた。
例えば、混雑した上野駅で、人々はなお整然と並んで電車を待っていた。
 日本を訪れた後、キーンはアメリカに帰り海軍を除隊した。
彼は、コロンビア大学でさらに勉強し、その後ハーバード大学でも、そしてケンブリッジ大学でも学んだ。
1953年、ついに彼は、再び日本を訪れ、今度は京都大学で日本文学を勉強した。
 京都には彼がとても魅力的だと思うことがたくさんあった。それは、美しい建築物、玄関で揺れているちょうちん、通りを歩いている舞子などである。
とりわけ、彼は狂言を楽しんだ。
彼は、伝統芸術を学ぶことが、日本文化の理解を深める最も良い方法だと気づいた。
 京都にいたとき、キーンには新しい友達ができた。
彼は、以前アメリカにいて、キーンが下宿している家の一室に越してきた京都大学の教授と知りあった。
それは永并道雄であったが、彼は後に文部大臣となる。
キーンはまた、多くの日本人作家とも知り合いになった。
その中には、三島由紀夫、川端康成、阿部公房のような人物もいた。
4
 京都で2年間過ごすと、キーンはコロンビア大学に戻り日本文学を教えていたが、定期的に日本を訪れていた。
1961年、彼は1年間の研究休暇を得ると、それを東京で過ごすことにした。
彼はすべての時間を日本の劇場に関する書を読んだり、能や歌舞伎の舞台を鑑賞して過ごした。
 その後多年に渡り、キーンは毎年東京で少なくとも1年の幾分かを過ごし、日本と世界の橋渡しに活発だった。
文学作品を日本語から英語に翻訳し、彼自身多くの作品を書くことで、日本文学の宝を世界に示した。
彼はまた、アメリカ中の大学に手紙を書き、能の公演をさせてくれるよう申し出た。
多くの大学が彼の申し出を受け入れ、ついに36の公演が行われた。
2008年、彼の日本文化の知識を普及するたゆまぬ貢献が、日本最高位の文化勲章を彼にもたらした。
 キーンがコロンビア大学の退職を考えていたちょうどその頃、東日本大震災が東北地方を襲った。
その凄まじい影響と、破壊された地域を再建しようとする日本人の懸命な努力を報じるニュースが、彼に終戦直後の日本を思い出させた。
彼は再び、日本人の勤勉さと誠実さ、そして決して希望を失わない姿勢に心を打たれた。
彼は日本人になり、彼が愛したその国で、残りの人生を生きようと決めた。

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タグ:Polestar 和訳
posted by sakai shinji at 20:49 | Comment(0) | Polestar E.C.2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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