2015年04月28日

Crown E.C.3 Lesson 4

1
 アルベルト・アインシュタインや徳川家康、坂本龍馬が最近、丸の内で目撃されたことを知っていただろうか。
まあ、そんなようなものだ。
それらは、「ベンチアート・イン・丸の内2012」という、有楽町と大手町の間のベンチに有名な人々の等身大の像が置かれた展覧会の一部だった。
「私たちは人生の一部として、芸術作品を楽しむべきだ」と、そのプロジェクトの責任者は言った。
 あなたは、おそらく、絵画や彫刻、陶芸といった芸術作品を美術館で見ることに慣れているだろう。
しかし、丸の内の展覧会の目的は、芸術作品を美術館から持ち出し、私たちの日常生活に持ち込むことだった。
 丸の内の展覧会は、芸術作品と日常生活との境界線を「溶かす」芸術作品の例で、私たちを芸術家の作品に直面させ、新しい考え方の扉を開く。
 ベンチに座っているアインシュタインの彫刻は、美術館の彫刻よりも、もっと人間的で親しみやすい。
もしあなたが通りを歩いていてこのアインシュタインを見たら、どうするだろうか。
もしあなたがほかの多くの歩行者たちのようなら、彼の隣に座るかもしれない。
彼の肩に手を回すかもしれないし、誰かにあなたたちの写真を撮ってくれと頼むかもしれない。
ひょっとすると、アインシュタインがどのように世界を変え、あなたがこれからどのように世界を変えるのだろうかと考えるかもしれない。
あるいは、アインシュタインと友だちだったら、どんな感じだっただろうと思うかもしれない。
おそらく、アインシュタインの隣に座りながら、あなたは新鮮な目で見慣れた環境を見て、アインシュタインがその環境をどう思っただろうかと思いを巡らせるだろう。
そしてあっという間に、あなたは芸術作品と個人的に関わっている。
これが、 芸術家が求めていることだ。
つまり、あなたの関心を引きつけ行動を変えるようなやり方で、芸術作品をあなたの生活の中に思いがけず持ち込むことだ。
2
 ある晴れた午後、あなたは携帯電話でメールをしながらぶらぶら歩いているかもしれない。
そして、出くわすかもしれない、ホームレスの北極熊に?
 あなたは立ち止まり、見る。
あなたはもう一度、見る。
あれは本当にホームレスの北極熊なのだろうか。
ちょっと前、あなたは自分自身の考えの世界に没頭していた。
次の瞬間、あなたは全神経をまさに目の前にいるものに集中させて、とても鋭敏になる。
あなたは考えるかもしれない、「通りのここに座って、北極熊は何をしているのか。なぜ彼はホームレスの人のように見えるのか。彼はホームレスの人たちをからかっているのか。私は彼にお金をあげた方がいいのか。あれらの看板は一体何なのか。私は何をすればいいのか。」
その芸術家は、あなたをいつもの日課から抜け出させるのに成功した、つまり、彼はあなたをより深い見地で、世界と触れ合う気にさせた。
 そのホームレスの北極熊はアメリカ人芸術家、マーク・ジェンキンズの作品だ。
彼は動物や人間の本物そっくりな像を作り、しばしば許可を得ることなく、デパートの前の歩道でひざまずいているこの男性のように、それらを公共の場に置く。
インタビュアーに、「どうしてこのような芸術作品を作るのか」よ尋ねられて、ジェンキンズは言った、「私は、人々に、周りのものに疑問を持たせるのが好きなのだ、何が現実で、何が現実でないかと。最近人々は、携帯電話にとても夢中になっている。それで、私は彼らにただ顔をあげてもらいたかった。」
 環境活動家とともに活動しながら、ジェンキンズは地球温暖化に関心を向けさせるために、ホームレスの北極熊を作った。
それはまた、彼らの生息地が消滅しているので、本物の北極熊の問題にも、私たちの関心を向けさせる。
ジェンキンズは言った、彼は人々に「彼らがホームレスの人たちに共感を抱くように、北極熊にも共感を抱いてもらいたい。私たちはそれらを2つの関連した問題と見なしている。」
3
 芸術作品は私たちを微笑ませ、同時にに考えさせる。
それは、ユーモラスにも深刻にもなれる。
このページの下にある、階段に座っているとても小さな人たちの写真を見てほしい。
これらの像は、ブラジルの芸術家ネレ・アゼベドによって作られたのだが、氷でできていて、ベルリンの公共の広場に置かれ、そこで、ほとんどすぐに溶けけ始めた。
その芸術家の「溶けゆく人々」は、私たちにどんなメッセージを送ろうとしているとあなたは思うだろうか。
 あなたはこれらの小さな像は、まさにジェンキンズの作品のように、地球温暖化の危険に対する警告であると思うかもしれない。
そして確かにこの解釈は正しいだろう。
それらは、グリーンランドや南極の氷冠が溶けていることに人々の関心を向けさせた。
 しかし、アゼベドは「溶けゆく人々」のもともとの意図は、地球温暖化とはほとんど関係がなかったと言う。
彼女は環境保護活動家かと尋ねられると、違うといい、そして、「溶けゆく人々」は最初、有名な記念建造物に対する批評だったと付け加えた。
つまり、彼女は英雄たちを特徴のない像に置きかえ、永久的な石を溶けゆく氷に置きかえたのだ。
彼女は思い起こす、「そのプロジェクトは単体で始まりました、のちに、たくさんの小さな氷の彫刻が、いくつかの都市の公共の場に置かれました。その小さな像は、溶けてなくなりますが、それらの記憶は写真や見た人みんなの心に保存されます。まさに巨大な記念像に残されている偉大な英雄たちのように。」
彼女は、もっとも偉大な記念像でさえも、「溶けゆく人々」のように、最後には砕けて塵となり、消えてなくなるだろうと付け加えたかもしれない。
 2005年以来、アゼベドは世界の様々な国々に、「溶けゆく人々」を設置してきている。
そして環境保護論者たちはいまや、彼女の作品を気候変動の芸術作品として採用している。
アゼベドは、自分の作品に対する新しい解釈を受け入れている。
彼女は言う、「芸術作品の解釈は自由です。それがこの惑星における私たちの存在を脅かす重要な問題についてもまた言及できることが、私はうれしい。」

4
 西野達は、彼もまた公共の記念物と私たちとの関わりに関心を抱いている日本人の芸術家であるが、まったく異なる方法でその問題に取り組んでいる。
シンガポール・ ビエンナーレ2011の重要なプロジェクトのひとつとして、彼はシンガポールの国民的な記念像であるマーライオンの環境を変えるという考えを思いついた。
マーライオンは、ライオンの頭と魚の体を持つ想像上の生き物だ。
 西野は、マーライオンを移動させることなく、豪華なホテルの部屋に入れることを計画した。
西野がしたことはかなり驚くものだった、あるいは人によっては衝撃的でさえあった。
彼は、高さ8.6メートルの想像上の生き物の周りに豪準なホテルの部屋を建てたのだ。
 マーライオン・ホテルは公共の場をプライベートな空間に変えている。
有名な記念像がまさにそこに、ホテルのあなたの部屋の中にあるのだ。
2011年3 月13日から5月15日まで、マーライオン・ホテルは、誰でも、ホテルの部屋の真ん中の床から現れた半分がライオンで半分が魚の像のこの奇炒な光景を写真に撮ることができるよう、一般に公開された。
夕方にはそのホテルは宿泊用に営業した。
 あなたは有名な記念像といっしょに部屋で眠ることについてどう思うだろうか。
たとえあなたの答えがどうであっても、おそらく今までそのような質問をされたことはないだろう。
あなたがマーライオン・ホテルへの階段を上がっているのを想像してみなさい。
あなたはホテルの部屋に入ると、突然その像と顔を合わせるのだ。
これはあなたにどう感じさせるだろうか。
そしてホテルの部屋の窓の外をじっと見れば、マーライオンの視点から様々なものを見るという絶好の機会を得る。
あなたの世界のとらえ方が変わった。
 この企画を通して、西野は人々に、当たり前だと思えるかもしれないものや、ごくふつうに思えるものに、新しい物の見方を与えることに成功した。
これはおそらく、芸術作品が私たちにすることができるいちばん重要なことのひとつだ。
好むと好まざるとにかかわらず、それは私たちの日常生活の一部で、私たちにメッセージを送っている、「周りの世界を見なさい。気づきなさい!関わりなさい!」
脱出、突入
 マーク・ジェンキンズのような芸術家は、芸術は、公的な場所、すなわち、通りや地下鉄の駅、丸の内の公園のベンチにおいてさえ、見られるべきであると考えている。
彼らは、芸術を自由にし、それを美術館から「脱出」させたいと思っている。
 ほぼ100年前、別の芸術家グループが、同じような見識をもっていた。
彼らは、美術館には、芸術として見るに値する多くのものが入りきれないと感じた。
これらの芸術家は日常の物を、枠の中に、あるいは、台の上に置き、それらが「芸術」作品であると主張した。
彼らは疑問に感じていた。「誰に、何が芸術であると言う資格があるというのか。芸術家だろうか、それとも美術館の館長だろうか?」
彼らは、芸術が美術館「入り」するのを助けようとしていた。
 フランスの超現実主義者、マルセル・デュシャンは、これらの芸術家の最も有名な1人だった。
彼の2つの作品の写真が、ここにある。これは、彼が金物屋で購入し、台の上に置き、「泉」と題した帽子掛けと普通の男性用小便器である。
彼はまた、この「彫刻」を提示した。自転車の車輪である。
芸術家が、芸術であると言えば、それは芸術だろうか?
デュシャンは多少ふざけながらも、重要なポイントをついていた。
近年では、500人の芸術評論家が、「泉」を現代芸術で最も影響力のある作品と呼んでいる。
1917年に、なんでもない物にタイトルを付けて威厳を与え、それを台の上に置くという発想は、何が芸術であり、何が芸術でないかという社会通念への衝撃的な挑戦だった。
評論家は、ある物が、芸術作品であるためには、少なくとも、芸術家の手が加えられていなければならいと考えていた。
 しかし、今日、多くの芸術評論家は、単に物を再配置し、それにタイトルを付けることが、その物に手を加えたことになると主張する。なぜなら、それが機能または地位に対する我々の認識を変えるからである。
 ミケランジェロは石のブロックを拾って、それに手を加え、「デイビッド」と呼んだ。
デュシャンは便器を取り上げ、それに手を加え、「泉」と呼んだ。
それらはどちらも、「芸術」であろうか?
決めるのはあなただ。



posted by sakai shinji at 12:06 | Comment(2) | Crown E.C.3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いいサイトだと思います
Posted by かりん at 2018年06月03日 23:26
ありがとうございます。もうずいぶん更新できていませんが。
Posted by sakai shinji at 2018年06月04日 00:48
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