2012年04月08日

pro-vision 2 Lesson 1

Go Armstrong!:いけ!アームストロング
@
“どんな障害もチャンスに変えなさい、どんなマイナスもプラスに変えなさい。”
母はこのルールをもって私を育て、そしてそうやって私は生きてきた。
私の育ったテキサスの小さな町では、フットボールをしなければ、ひとかどの人間にはなれなかった。
私はフットボール選手になろうとしたが下手だった。
そこで他の何かを見つけたいと思った。
私は子供のころ義父とうまくいっていなくて、それが私をいらつかせた。
しかしこの問題を乗り越えるチャンスを与えてくれる出来事があった。
初めて自転車に出会ったのである。
私は自転車に引き付けられ、こう考えた。
「もし自転車に乗ってこの道をずっと遠くへ行ったら、どこかここよりもっといい場所にいけるのではないか。」と。
雨でも晴れでも私は自転車のペダルをこぎ続けた。
13歳のとき、若いサイクリストのためのトライアスロンで優勝した。
その後まもなく別なトライアスロンでも優勝した。
私はアメリカトップのジュニアサイクリストでいる気分が好きだった。
こうして私の自転車生活が始まったのだった。
A
1990年、18歳のときに日本の宇都宮でのレースで、サイクリストとして海外デビューを果たした。
私は強靭なライダーだったが、戦術はまずかった。
レース半ばでバテないよう、スタミナをもっと効率的に使う必要があった。
ベストを尽くしたが、11位に終わった。
1993年、私はオスロで開かれた世界選手権で優勝した。
私のレース技術はよくなっていたが、まだ改善する必要があった。
私が初めてツール・ド・フランスに参加したのは1995年だった。
私はサイクリストにとって世界でもっともきついレースに参加するのに成功したが、優勝するにはまだ不十分だった。
けれどもツール・ド・フランスのあと、私は選手生活のピークにさしかかっていると感じた。
世界最高のライダーの一人として、私は邸宅、素敵なスポーツカー、そして銀行に貯めた財産があった。
いつも順風満帆にいくと思っていた。
その後、人生最大の障害が訪れた。
「癌ですね。」という言葉を聞いたとき“恐怖”という言葉の本当の意味がはっきりと分かった。
この恐怖に比べたら、それまで味わってきた恐怖など何でもなかった。
「肺と脳に癌があります。」医師がいった。
私の生存確率は40パーセントだった。
まだ25歳。
もっと生きていたかった。
3回手術をし、その後に長くて痛い一連の化学療法が続いた。
いつも痛みがあって嘔吐し続けた。
治療は病気そのものと同じくらい、いやもっとひどいと思った。
これがまる4ヶ月も続いた。
B
私は奇跡的に癌に打ち勝った。
問題は選手生活に戻るべきかどうかだった。
長くてつらい化学療法のせいで筋肉はすべてそぎ落ち、とても弱りすぎていて何もできないような気がした。
自転車に乗るのはもはや無理だと思った。
「アームストロングは終わった。
もう二度とレースに参戦しないだろう。」
私はプロのサイクリニストとしてのキャリアを断念することを考えた。
時間のほとんどをゴルフに費やし、テレビを見て過ごしたが、面白くなかった。
幸せも自由も感じなかった。
そんな折、コーチが私に会いに来た。
彼はガレージで私の自転車を見て、私が自転車に乗っていなかったことを知った。
「せっかく生還したのだから、充実した人生に戻らなくてはだめだ。」彼は言った。
そしてアパラチア山脈でトレーニングキャンプをやらないかと勧めた。
私は準備万端というわけではなかった。
しかしそこは前にレースで2度優勝した場所だった。
再スタートを切るのには悪くない。
しばらく時間をかけ、また自転車に乗る決心をした。
毎日毎日何時間もペダルを踏んだ。
ある日、雨の中、坂を登っていると、道路に書かれた白と黄色の文字が目に留まった。
“Viva Lance”と書いてあったのだが、それは前回のレースで私を見た観客が書いたものだった。
登り続けるにつれ、車輪の下に雨で消えかけた文字がもっと見えてきた。
“Go Armstrong”。
私は自分の人生がどう運命付けられているのか分かり始めた。
まさに、私の人生は長くて険しい登り坂ということだ。
私は自分がしなくてはならないことを悟った。
それはツールで優勝することだ。
C
私は1999年のツールに挑戦するまで、すべてを犠牲にして厳しいトレーニングに専念した。
私が優勝すると思った人はほとんどいなかった。
レース前半、私はスタミナを温存し、後方につけていた。
レース中盤になって先頭に立つと、そのまま先頭を維持した。
走っているあいだ自転車が体の下で左右に揺らぎ、私は息を弾ませた。
3週間以上続くレースのスタミナ配分を考えながら、来る日も来る日も自転車に乗り続けた。
疲れきっていたが走り続けた。
最後の6キロに入ると、持てるすべてを尽くしてペダルをこぎ続けた。
フィニッシュラインを切ったとき、時計は最も競り合っている相手より私のほうが9秒早いことを示していた。
私はツールで優勝したのである!

以前、「ランスはフランスの山や丘を飛び上がっていった」と書いてある新聞記事を読んだことがある。
しかし丘を飛び上がっていくことは決してできない。
のろのろじりじり四苦八苦しながら丘を登り、もし本当にがんばったのであれば、もしかしたら頂上にたどり着けるかもしれない。
人生は障害に満ちている。
その障害をチャンスに変えるかどうかは君次第だ。


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2012年04月11日

pro-vision 2 Lesson 2

ツバル:消え行く島

@ 日本から南東に約7000キロ飛ぶと、美しい青い海に浮かぶ小さな島国が飛行機から見えるだろう。
それはツバルと呼ばれる。
赤道の真下、フィジーの約1000キロ北の太平洋の真ん中にある。
この国には小さな島が9つあるが、土地面積はわずか26平方キロしかなく、最高点も海抜5メートルである。
ツバルの人口はおよそ1,1000人で、そのほとんどが首都フナフティに住んでいる。
ツバル人は共同的な生活を送っていて、自然環境と調和して生き、自然の恵みを受けている。
生計を立てるため、沿岸水域で漁をしたり、畑でココナツ、バナナ、プラカを栽培したりしている。
そのような平和的な暮らし方が2000年以上続いたが、今、そこは消滅の危機にある。
何らかの理由により、すべての島がゆっくりと、しかし着実に海へと沈みつつある。
地表から姿を消しつつあるのである。

A 2月から4月まで、島では満潮時に奇妙なことが起こる。
1日に2回、地面の小さな穴から海水が湧き出してくるのである。
これはこの島の土がさんご礁の堆積物でできていて、水がこうした堆積物を簡単に通過するためである。
その結果、潮が満ちると、土地はスポンジみたいに海水で満たされるのである。
こういうことが島のいくつかの場所で起こっている。下の写真を見てほしい。
普段は広場に水はないが、潮が満ちると水たまりができ始める。
水たまりはどんどん大きくなって他の水たまりと合体する。
たちまち広い土地は海水でいっぱいになる。
海水は場所によっては50センチかそれ以上まで上がり、海水が引くのに数日かかることもある。
ある男が言った。
「約10年前までは井戸水を飲んでいたものだが、今では飲めない。
井戸水は農業にも使えない。
井戸水は塩分が多すぎる。
今では井戸の中で海ガニが生きている。」
プラカの畑を指差しながら彼はため息をついた。
「プラカを栽培するのはあきらめなければならない。
プラカは一度根が海水につかると生きられない。
ここで栽培するのはただの時間の無駄だ。」
他の多くの野菜を栽培するのも難しくなった。
その結果、ツバルは外国から持ち込まれる食べ物に頼らざるを得なくなった。
彼らは伝統的な生活様式を失い始めていた。

B ツバルが海に囲まれているという事実は、かつてはツバル人にとって恩恵だったが、今ではその同じ海が彼らのすみかと生活様式をまさに奪おうとしている。
海岸沿いにヤシの木の生えた多くの砂浜があって、そこはかつて子供たちが集まって遊んだ場所だった。
そんな場所はもう存在しない。
満潮と強風が、かつて岸沿いに並んでいたヤシの木だけでなくほとんどすべての砂地も侵食してきた。
「私たちは死ぬまでこの国にいるつもりです。」
ある年配の女性が言った。
「たとえ海の下に沈んでも、この島を去るつもりはありません。
子供たちは出ていかなければならないかもしれない。
新しい場所で幸せに暮らしてほしい。
でも私は今いる場所にとどまるつもりです。
ここが私の家なのです。」

C この小さな島国が直面していることは、単なる局地的な問題ではなく、また地球規模的な問題でもある。
日々の人間の活動─特に先進国での─が地球温暖化と大きく関わっている。
毎日、化石燃料やごみなどといったものが燃やされることによって大量の温室効果ガスが生み出されている。
このことが地球温暖化を加速させており、それが極地の氷を溶かして海水面を上昇させていると多くの科学者は考える。
ある報告書は海水面が今後100年間で88センチも上昇するかもしれないことを明らかにしている。
ツバルだけが海水面の上昇による影響を受ける国なのではない。
もし海水面が上昇し続ければ、日本の海岸線も含め、他の多くのより大きな国の海岸線もまた海の下に沈むだろう。
ツバルは,長い歴史の中で,今や危機的な時期にある。
地球温暖化が続くならば、人々は彼らの祖国を失う。
これは、数千年もかけて創られたユニークな文化が将来の世代に渡されないことを意味する。
あなたは、祖国を永遠に失うことを想像できるだろうか。
我々が素早く行動しなければ,将来そのような悲劇が我々に起こるかもしれない。
ツバルと地球の未来は我々の手の中にあるのだ。

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2012年04月15日

pro-vision 2 Lesson 3

テーブルの上の砂糖

1 多くの人々は、頭が疲れたとき何か甘いものを食べるよう勧める。
これは砂糖が脳のエネルギー源だからである。
砂糖はあなたに元気付けられたと感じさせる。
事実、食べ物の砂糖は摂取してからわずか10秒で体に吸収されて血流に入り、すぐに脳にエネルギーを与える。
砂糖はケーキやクッキーを作る大事な材料であるが、それはものを甘くするためだけに使われるのではない。
砂糖は食べ物が傷むのを防ぐのにも役立つので砂糖がいっぱい入ったスウィーツや食べ物は保存され長持ちした。
面白いことに、砂糖を鍋で熱するとカラメルと呼ばれる茶色の物質に変わるが、それはしょうゆや清涼飲料水、その他の食品の安全な天然着色料としてずっと使われてきた。
見ての通り砂糖にはいろいろな使い道がある。
現在ではどこの店でも全く簡単に砂糖を見つけることができるが、実は砂糖が広い範囲で利用可能になるまでには,長い時間がかかった。

2 食用の砂糖は主にサトウキビから採れる。
この植物は南太平洋の島々が原産で、インドを介して世界中に広まったと考えられている。
ヨーロッパでは,砂糖が持ち込まれる以前は,蜂蜜が甘味料として使われていた。
ヨーロッパ人に初めて砂糖が知られるようになったのは、アレクサンダー大王の軍隊がインドからギリシャに砂糖を持ち帰った紀元前 4世紀である。
ギリシャ人兵士は、初めてサトウキビを見て、「ミツバチのいない蜂蜜のアシだ!」と喜んで叫んだ。
16 世紀、ヨーロッパの人々の間に広まり始めたとき、砂糖は甘味料としてだけでなく薬としても使われた。
砂糖は「万能薬」として認知され、医者は体が弱っていると感じている患者に砂糖の「処方箋」を出した。
実際、発展途上国の多くでは、砂糖は今なお下痢になっている子供たちを治療するのに使われている。
歴史上には他にも砂糖の面白い使い道があった:それは装飾品としてである。
中世では、砂糖はきわめて高価だった。
それゆえ,大量の砂糖でできた装飾品は特定の人々の大きな富や権力を示した。

3 15 世紀になると砂糖は新しい役割を担った。
この時期、主要なヨーロッパ諸国は中米や南米に植民地を作った。
サトウキビは世界の熱帯や亜熱帯の地域でしか栽培できないので、カリブ海の暖かい島々を含むこれらの地域はサトウキビの栽培に適していたのである。
イタリア生まれの航海者コロンブスはカリブ海への航海でヨーロッパからサトウキビを運んでいった。
コロンブス時代の後、ブラジルやその他の土地と同様にカリブ海の島々にもプランテーションが作られ始めた。
砂糖を大量に生産するためには大勢の労働者が必要とされた。
不幸なことに、砂糖の需要増大が世界のこの地域の黒人奴隷の普及を加速させた。
数千万人ものアフリカの黒人がこれらの島々に送り込まれ、奴隷として砂糖プランテーションで働かせられた。
これが現在これらの島々にアフリカ系の人々がとても多い理由である。
人々の砂糖への欲求が歴史の流れを変え始めた。
社交の場で、お茶を飲む習慣が流行りだしたのは18 世紀の英国で、人々は砂糖入りのお茶の味を楽しんだ。
その結果、砂糖の需要が高まり、砂糖は大量に生産されなければならなかった。
想像しづらいかもしれないが、奴隷が砂糖を大量生産するための合理的方法と見なされていた時代があった。
世界のある地域における砂糖への欲求のため、世界の別の地域の人々が無理やり奴隷にされたのである。

4 砂糖はかつては高価すぎてほとんどの人が買えなかったが、大量生産がそれの値段を下げた。
その結果、砂糖は世界中のありふれた日用品になった。
砂糖は、かつては薬や装飾品として使われたが、ようやく食料品になった。
今日、私たちは砂糖を当たり前のものと考えているが、砂糖が広い地域で入手できるようになるのに長い時間がかかったということは覚えておくべきである。
砂糖は一種の生きた歴史本である。
砂糖や他のそのような日用品を通じて、私たちは過去の人々の生活について知り、世界がなぜ現在のようになったのかを理解する機会を得る。
私たちはものを甘くするため、たいてい砂糖を使うが、他の使い方もできる、すなわち、私たちの社会を理解するためにである。

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2012年05月26日

pro-vision 2 Lesson 4

ムーミントロールの世界

1 児童文学の有名な作品がアニメを通じて世間に広く知られてきた。
アニメ映画になった児童文学の有名な一例がムーミンである。
このアニメは日本ではヒット作で、ヨーロッパの数カ国のテレビで放映された。
このアニメのかわいい顔をしたキャラクターを見たことのある日本人は多いが、ムーミンの世界について本当はどれほど知っているだろうか?
日本の学生100人の調査で、次の質問が聞かれた。
1)ムーミンのことを何か知っていますか?
2)もとの話はどこから来たか知っていますか?
3)ムーミンの話にどんな印象を受けますか?
学生100人中、9割近くの学生が“はい”と答えたが、その4分の1しかその話の生まれた場所を知らなかった。
3番目の質問に対する答えで、学生はかわいい、暗い、幸せ、楽しい、まじめ、やさしい、自分勝手などさまざまな印象を述べた。
そのようないろいろな印象を持った理由は何だと思うだろうか?

2 ムーミン(彼の元の名前はムーミトロール)はフィンランド人の作家であり画家でもあるトーベ・ヤンソンによって生み出された。
彼女は一連のムーミントロールの本を書いた。
彼女の第1作目の『小さなトロールと大きな洪水』は第2次世界大戦直後に出版された。
最初、それはフィンランドの新聞販売所でだけ売られたが、しばらくしてそのキャラクターが多くのフィンランド人の人気を得始め、その後26年以上トーベは話を書き続け、他の8冊のムーミンの本のイラストを描いた。
“ムーミントロール”という一風変わった名前はトーベのおじによって作り出された。
彼はよく、“ムーミントロール”という目に見えない生き物が家のストーブの後ろに潜んでいると言って彼女を怖がらせたものだった。
彼女が何か悪いことをしたとき、彼は彼女に「ムーミントロールが出てくるぞ!」と言ったものだった。
ムーミントロールの姿は、トーベが小さい女の子だったとき壁に描いた落書きしたキャラクターから来ていた。
それは大きな鼻と長いしっぽを持ったぽっちゃりした生き物だった。
トーベは成長する間このキャラクターを描き続けた。
20代のとき、戦争が始まった。
戦争中、トーベは戦争に反対していた雑誌の表紙のイラストを描く仕事をしていたので、フィンランド政府は彼女の作品を発禁処分にした。
彼女は描く意欲を失った。
「この世界が混沌としているときは絵は何の意味も持たないように感じた。」と彼女は言った。
「私の身の周りのすべての物が色あせていった。」
周囲の世界に落胆したので、トーベは彼女の新しい想像の世界を作り上げていった。
彼女は子供時代の幸せな日々を思い出し、穏やかで平和な雰囲気を持った場所を見つけようとした。
この場所がムーミン谷、ムーミントロールという名前の生き物とその友達が住む緑の木々に覆われた谷だった。
「実を言うと、戦争中にそんな話を書くことは私にとって一種の現実逃避だった。」とトーベは言った。

3 トーベの空想の世界はフィンランドの、果てしない緑の森と青い湖でいっぱいの土地の美しい自然を反映している。
ムーミン谷では北欧のように夏は短く冬は長い。
秋の終わり、冬のあいだ冬眠するためにムーミントロールと彼の家族は松葉をしっかり食べる。
谷の生活は浮き沈みに満ちている。
時おり洪水や竜巻、火山の噴火に見舞われる。
物語のキャラクターたちは自然の脅威だけでなく難しい個人的な問題にも対処しなければならない。
このことがムーミントロールシリーズを他の児童文学とは異なるものにしている。
あるエピソードはこう進む。
ニニという名前の若い女の子が、おばがいつも意地悪なことばかり言うので自信をなくしている。
彼女はとてもしょげてしまい、透明人間になってしまう。
運のいいことに、彼女はムーミントロールの一家に出会う機会に恵まれる。
彼らは彼女を歓迎し、やさしくもてなす。
彼らの優しさに感動し、顔を取り戻すのに若干時間がかかったものの、彼女は次第にまた目に見えるようになる。
ムーミントロールの小さくても強情な友達のちびのミイは彼女に言う。
「闘うことを覚えるまで絶対顔は取り戻せないわよ。」
顔を取り戻すため、ニニは自信を得る必要があった。
ある日、ムーミンパパがからかってムーミンママを海に突き落とそうとする。
ニニはムーミンパパがムーミンママを傷つけようといているのだと考える。
彼女は怒ってしっぽに噛み付いてムーミンパパを止める。
彼女の顔が現れ始めたのはまさにこの瞬間である。
大事なムーミンママを救うことによってニニは、彼女はこの時まで決して誰にも敢然と立ち向かうことはなかったのだが、顔を取り戻すことができる。
ニニはムーミンパパに立ち向かったことで彼女は自信を得ることになる。

4 このエピソードが示すように、トーベは空想の物語を通じて人間の問題について取り組んだ。
もしムーミントロールの世界に足を踏み入れれば、ムーミン谷の住人たちもあなたが自分の生活で直面するのと同様の問題を抱えていることが分かるだろう。
だから読者は、キャラクターと物語を楽しむ一方で同時に人生についての教訓を学ぶことができる。
空想の形態がいろいろな人々が彼女の物語の中に個人的メッセージを見つけることを可能にするのである。
トーベはムーミン谷の世界を作り出すことによって現実から逃避したいのだと言った。
しかし実は、彼女は現実から逃げてはいなかった。
そうではなく、彼女は現実に創造的に対処していたのであり、そうすることによって彼女は世界中の多くの子供たちを喜ばせてきた。
「子供たちが自分が私の空想世界の中に入り込んでいるのに気付き、私の物語を記憶にとどめているのをみると、私はとても幸せを感じます。」とトーベは言った。
35を超える言語に訳されているので、ムーミン谷の物語は世界中の人々の心を魅了してきた。
ムーミントロールの世界は楽しいときだけでなくつらいときも人々を楽しませ、人生を輝かせるのである。

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2012年06月13日

pro-vision 2 Lesson 5

1 メアリー・ルーが学校から帰ってくると、お父さんが何か新しいことをしていた。
テーブルに大きな紙を敷いて、定規と鉛筆でそれに線を引いていた。
「何してるの?」と彼女は聞いた。
「ある物を作る。」とお父さんの返事は別な質問を要した。
「おもちゃのお家?」メアリー・ルーはずっとおもちゃのお家を欲しがっていたし、お父さんは大工だったので、彼が彼女におもちゃのお家を作るのは難しくないだろう。
「家の上に部屋を一つ作るんだ。」お父さんは今度こそは答えを明かし始めた。
「おじいちゃんが同居しに来る。」
メアリー・ルーはこの知らせを聞いてとても興奮したので、お母さんを見つけに二階へ行った。
彼女はメアリー・ルーの赤ちゃんの弟を抱きながら、揺り椅子に座っていた。
「お母さん、おじいちゃんが同居しに来るんだって。すごくない?」
「ここにいて幸せになれればいいけど。」とお母さんが低い声で言った。
「何で幸せになれないかもしれないの?」メアリー・ルーは聞いた。
「それはね、おじいちゃんがとても年を取っているからよ。」とお母さんが言った。

2 数ヶ月しておじいちゃんが同居しに来た。
メアリー・ルーはそれまでより幾分幸せに感じたが、理由ははっきりとは分からなかった。
おじいちゃんは時として厄介者になった。
骨が痛めばまともに歩くこともできなかった。
ベッドでじっとしていなければならない日さえあり、そんな時はお母さんが食事を祖父の部屋に運ばなくてはならなかった。
服に物をこぼすこともあって、それもお母さんの仕事になった。
それでも足の調子がよくてメアリー・ルーと一緒に散歩ができるほどの日もあった。
そうしたある日、メアリー・ルーは聞いた。「走れなくて残念?」と。
「まさか。」おじいちゃんが言った。
「わしがお前ぐらいのときはどこに行くにも走ったものだよ。
私にも走る番があった。
今度はお前の番だ。
お前が私みたいに年を取ったら他の子らの番だ。」
メアリー・ルーは歩きを止めた。
自分が年を取り過ぎて走り回れなくなると考えると少し怖くなった。
「気にならなくなるだろう。」とおじいちゃんが言った。
「昼と夜がさっと過ぎてしまうように歳月も過ぎる。
お前はそれにまったく気付かないだろうが。」
「うん。」とメアリー・ルーは厳かに言った。
「それでおじいちゃんは死んじゃうの?」
「どっちとは言い切れない。」とおじいちゃんが言った。
二人は歩くうちに梢が枯れている大きなブナの木のある野原の外れにやって来た。
夏に近所の子供たちがその木の木陰でよく遊んでいるので、メアリー・ルーはその木をよく知っていた。
「あの古いブナを見なさい。」とおじいちゃんが杖で指しながら言った。
「何が見える、メアリー・ルー?」
「古い木。それと周りに生えている小さな木。」
「よろしい。あれらの小さな木がどこから来たか知ってるかい?」それからおじいちゃんは質問に答えた。
「彼らはあのブナから来たのだよ。
あの古い木は自分の時間がもう尽きようとしていることを知っている。
だから根っこに命じて小さな新しい木を作らせたのだ。
最初は、新しい木は古い木の根っこから水分をもらっている。
だがやがて小さな木は自分の根っこを下ろし始める。
古い木が死ぬ頃には、小さな木はもう古い木を必要とはしないのだ。
それでも、もし古い木がなかったら小さな木は生きてはいない。
古い木は小さな木の中で生き続けるのだ。」
メアリー・ルーは話を全部理解するのに少し苦労したが、一つ聞きたい気分だった。
「子供は好き?」
おじいちゃんは何も言わなかったが、顔に笑みが広がった。

3 その日の夜、お母さんとお父さんの奇妙な会話が開いた窓を通してたまたまメアリー・ルーの耳に届いた。
「ドナルド。」とお母さんが言った。
「お義父さんを養護施設に預けることも考えるべきだと思うわ。
家にお年寄りがいると子供たちによくないと思うの。
お義父さんは弱ってきているし、それを見たら子供たちも悲しむでしょ。」
お父さんが耳慣れない声で言った。
「マリアン、君の気持ちも分かる。
だから僕としてはその考えに反対できない。
正直、父さんは君の負担になっているだろうな。」
メアリー・ルーは信じられなかった。
どうしておじいちゃんのせいで私が悲しむなんて考えられるのだろう。
いつの間にか目に涙が溢れていた。
でも考えるのをやめることはできなかった。
たぶんお母さんはおじいちゃんの世話をするのに飽きたのだ。
だとしたら、じゃあ…。
メアリー・ルーはこう独り言を言った。
「私が何とかしなきゃ。」
彼女はガバッと起き上がり、部屋を抜け出して忍び足でおじいちゃんの部屋に入った。
「おじいちゃん、私、おじいちゃんに出て行って欲しくない。」と彼女は出し抜けに言った。
「おじいちゃんのために何でもするって決めたの。
服に何かこぼしたら洗濯するとか。」
おじいちゃんはこれを聞いて驚いた。
けれどここ数日間の会話や出来事を整理し、何とか全貌をつかんだ。
「そんなに助けようとしてくれるなんて、お前は優しい子だ、メアリー・ルー。」とおじいちゃんが言った。
「でも分かるだろうが、私がどこかよそへ行くのがいい考えかもしれないというのは認めざるを得ないし、そこの方が私に向いているかもしれない。
そうすればお前もお前の母さんも手間が省けるし。」
「でも小さな木は古いブナと一緒に生きているんだよ!」とメアリー・ルーは言い返した。
「小さな木は古いブナを追い払ったりしない!」
「静かに。」と彼が言った。
「木は人間じゃないぞ。」
これを聞いてメアリー・ルーは泣き始めた。
彼女はおじいちゃんの枕元にひざまずき、祖父は彼女の髪をなでた。
しばらくして彼が言った。
「わしのことなら心配いらない。
お前とはお別れだが、いつでも会いに来なさい。」
「行っちゃだめ。行かせない。」とメアリー・ルーは言い張った。
「ありがとう、一緒にいたいと言ってくれて。」とおじいちゃんが言った。
「なんて優しい子なんだ。
でも今夜はもう遅い。
もう戻って寝なさい。
おやすみ、メアリー・ルー。」

4 次の日、学校から帰って来ると、メアリー・ルーはお父さんがおじいちゃんの荷物入れを用意しているのに気付いた。
これを見て彼女はきっぱり言った。「おじいちゃんは行かないよ!」
「何?どうして知ってるんだ?メアリー・ルー?」とお父さんが驚いて言った。
お母さんがこれを聞いてキッチンから出てきて言った。
「でもおじいちゃんが行きたいって言っているのよ。
もうその話は済んだの。」
「うそ。」とメアリー・ルーは泣き出しながら言った。
「うそ、うそ!」
「何なの、あなたは!」とお母さんも大きな声を出さずにはいられなかった。
メアリー・ルーは二人にすべてを話した。
「昨日の夜、話しているのを聞いたの。
おじいちゃんのせいで私たちが悲しむなんてそんなのうそ。
私はおじいちゃんにずっと一緒にいて欲しい。」
彼女は続けた。
「それに私たちは大きなブナと小さな木について話したのよ。」
「この子は何のことを言っているの?」とお母さんが言った。
「大きなブナ?」
それでメアリー・ルーはお母さんとお父さんを古いブナの木まで連れて行った。
「ほら、これ。」とメアリー・ルーは説明を始めた。
「あの古いブナはおじいちゃんで、周りの小さい木は私たち。
小さな木は古い木を追い払ったりしないのよ。」
お母さんは何て答えていいのか分からなかった。
「お母さん。」とメアリー・ルーはじれったそうに言った。
「いつかお母さんが年を取ったら私に追い出されたい?」
「いいえ。」とお母さんが考え込みながら言った。
「いいえ、それは嫌だわ。」
「じゃあ、私がおじいちゃんのことどう思っているか分かるでしょ!」とメアリー・ルーは言った。
「お願い、おじいちゃんを追い出さないで。
おじいちゃんの世話なら何でもするから。」
「メアリー・ルーの言おうとしていることにも一理あるようだな。」とお父さんが言った。
「まあ、彼女がそう感じているなら。」とお母さんが言った。
「そうね、私が完全に間違っていたわ。」
そんなふうにして事態は収まった。
三人が家に着くとすぐにお母さんはおじいちゃんに言った。
「どうか一緒にいてください。
私たちで話したのですが、お義父さんにいなくなられてはやっぱり困ります。」
おじいちゃんは驚いて見上げた。
「だが、私は…」と彼は言い始めた。
メアリー・ルーは言った。「どうかお願い、一緒にいて。」と。
おじいちゃんは家族の生き生きとした顔に囲まれて、あの古い木になったような気がした。
そして彼は一つはっきりと分かった。
これでいいのだと。

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2012年07月03日

pro-vision 2 Lesson 6

世界を救った一人の男
@
 2003年2月23日、香港発の飛行機がまさにハノイに着陸しようとしていた。
乗客の一人、中国系アメリカ人のビジネスマンが少し熱を出していた。
世界にまだ知られていないウィルスが彼の体内で暴れているとは誰も知らなかった。
実はこのビジネスマンは SARS と呼ばれる感染症を発生させベトナム中を大混乱に陥れようとしていた。
飛行機はハノイに着陸しこのビジネスマンは町へと姿を消した。
医師のカルロ・ウルバニはイタリアの小さな町で生まれた。
町の病院で働いているあいだ、ウルバニは MSF の一員としてしばしばアフリカに行き、貧困の子供たちを診療した。
陽気で気さくで、彼は周囲の患者や人々に人気があった。
2000年、ウルバニは妻と 3人の子供と一緒にWHOの感染症専門家としてベトナムへ向かった。
A
 ウルバニがハノイのフレンチホスピタルから電話を受けたのは2003年3月3日の昼ごろだった。
医師がウルバニに、「香港から来た観光客が今、重体に陥っています。
彼のどこが悪いか分かりません。
診察に来てくれるとありがたいです。」
と言って助けを求めた。
ウルバニが診察に駆けつけると患者は呼吸困難に陥っていた。
男は40度近い高熱を出し、顔や腕、足は紫色になっていた。
彼は30分以上も苦しがって咳をし続けていた。
これがウルバニの病気との闘いの始まりだった。
あらゆる検査をしたにもかかわらず、彼は病気の原因を突き止められなかった。
「これはインフルエンザとして知られているものとは違う。」
ウルバニは言った。
「これが何なのか突き止めなければならない。」
ウルバニはこの患者が中国の広東の人と接触したのではないだろうかと考えた。
そこの人々が “謎の肺炎”が発生したためパニックになったと聞いたことがあったのだ。
しかしこの患者が感染者の近くにいたかどうか確信を持つ者はいなかった。
ウルバニと同僚たちにできることはせいぜい病気の蔓延を観察し、それをメールでWHOに報告することだけだった。
B
 3月5日、その患者の世話をしていたナースが倒れた。
ひどい頭痛と筋肉痛で彼女は動けなくなった。
その後、もう1人のナースが似た症状を呈して勤務中に倒れた。
間もなくさらに多くのナースが体調不良を訴え始めた。
ウルバニと同僚は病気の蔓延を防ごうと全力を尽くしたが、そうした努力はまったく役に立たなかった。
3月8日までに、病院の職員をしていてその病気にかかった人々は17人にのぼった。
病院の隔離病棟は痛みと高熱に苦しむ人々のうめき声で満ちた。
感染していない医師や看護師がほとんどいなかったので、病院ができることはほんのわずかしかなかった。
おまけに彼らを治療する医療設備も効果的な薬もなかった。
ウルバニは見つけたことやテスト済みのサンプルを記録し、病気を阻止する手段を何とか見つけ出そうとした。
彼は患者が見せた症状を細部にわたって記録した。
来る日も来る日も彼はWHOの人々にメールでデータを送り続け、この病院で起こっていることを世界中に知らせるよう頼んだ。
ウルバニはまたWHOに備品や助っ人をよこすよう頼んだ。
けれども観光業への悪影響を懸念して、ベトナム政府はWHOとウルバニに協力したがらなかった。
ウルバニの頼みは断られた。
C
 病院は患者を隔離病棟に入れ、職員を除いて誰もそこには入れなかった。
ウルバニは患者を見舞うのを決してやめなかった。
彼らは枕元に座って希望を与えようとした。
「このウィルスに効く薬はまだありません。
しかし永久に生きるウィルスはありません。
しばらくすれば死ぬでしょう。」
ウルバニは言った。
「私がいつも一緒についています。
心を強く持ってください。」
患者の一人は思い出す。
「世界中の人が私たちに見切りを付けたが、ウルバニ医師は違った。
彼は私たちを大いに勇気付けてくれた。」
けれどウルバニはこのとき自分の体内で何が起こっているか知らなかった。
ウィルスは彼の体内でも急速に増えていた。
3月11日、ウルバニが待っていたWHOの感染症専門家がハノイに到着した。
その専門家、押谷医師はウルバニのボスだった。
病院を案内した後、ウルバニは突然押谷に聞いた。
「もしあなたがこの病気になったらどうしますか?」
押谷は答えた。
「一番いいのはハノイを出て適切な治療を受けられる所に行くことでしょう。
しかし医師として、病気を蔓延させないのが一番正しい行動だと思います。
私ならここにとどまるでしょう。」
彼は続けた。
「しかし家族のいる身としてはそれも自信がない。」
その夜、ウルバニはそっとハノイを出発してバンコクに行き、そこで感染症専門の病院で治療を受けた。
今や彼自身が患者だったのである。
D
 3月12日、WHOは全世界に向けて警告を出したが、こんなのは創設以来初めてのことだった。
ベトナムの病院でどんなに早くウィルスが広まったか、この SARS がどんなに速くほとんど呼吸ができなくなる最終段階に達するかがそれには詳しく述べられていた。
ウルバニが命を犠牲にして彼らに送り続けたものは、きわめて重要な情報となった。
その時から、病気の蔓延を防ぐために世界中でさまざまな手段が取られるようになった。
3月27日、ウルバニはSARSで重態になった。
2日後、彼は妻に看取られながら死んだ。
ハノイで初めて病気の観光客を目にしてから27日後のことだった。
享年46歳。
8月、WHOはSARSの制圧宣言を公式に発表した。
ウルバニの訃報に押谷は涙を流した。
「もし彼と同じ立場にいたとしたら、私は彼と同じことはできなかったと思います。」
押谷は言った。
「彼はあの状況下で自分が最善と信じることをしたのだと思います。
彼が患者に献身したのはその例です。」
もしウルバニが発生の早い段階でウィルスを発見していなければ、SARSはもっと多くの人々を殺していただろう。
専門家によると犠牲者数は100万に達していたかもしれないとのことである。
1999 年、ノーベル賞がMSF に贈られたとき、ウルバニはイタリアのマスコミにこう言った。
「世界中の病気の人に可能な限り最高の治療を施したいというのが私の希望です。
それを実現するためには私は2つのことを続けています。
1つは患者のそばについていること、もう1つはいかなる障害にも決して屈しないことです。」
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posted by sakai shinji at 22:05 | Comment(0) | pro-vision 2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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