2013年06月15日

Crown E.C.1 Lesson 1

我々は技術者として月へ行った。そして我々は人道主義者として帰還した。
― エドガー•ミッチェル
宇宙へ行く
1969年、アポロ11号が月面に着陸した。
若田光一氏は5歳だった。
彼は宇宙飛行士になることを夢見ていた。
二十七年後、彼は宇宙へ最初の旅をした。
1
 私は宇宙へ3回旅をしました。
その度、私は地球への愛を再発見しました。
ISSは90分かかって、地球を1周します。
45分間は、昼間の景色が見られ、それから次の45分間は、夜の景色が見られます。
夜はとても暗いです。
星が輝いています。
天の川がどこまでも広がっています。
私たちの青い惑星地球は、広大な宇宙の中のオアシスのように見えます。
 宇宙から見た地球の映像が、テレビやコンピュータで見られます。
しかし、それらの映像は、宇宙から見た地球の実際の景色とはとても違います。
海や雲、山脈、川がはっきりと見られます。
日本をその形から特定することさえできます。
私は、美しい故郷(の惑星)を持てて、とても幸運だと思います。
2
 2009年に、私は3回目のISSの任務に就きました。
それは、137日と15時間続きました。
様々な国から来た人々がいました。
それでコミュニケーションがとても重要でした。
私たちは合意に達するまで、しばしば、お互いに語り合いました。
 様々な国から来た宇宙飛行士たちは、毎日一緒に食事をしました。
そのことが私にいろいろな宇宙食を楽しむ機会を与えてくれました。
私たちはそれぞれ、電話ブースほどの大きさの部屋で眠りました。
しかし、無重力状態で背中を痛める心配をする必要はありません。
私たちの家族とのコミュニケーションについて言えば、電子メールとビデオの両方を使うことができます。
 もちろん、いくつか問題もありました。
宇宙では、お風呂に入ることができません、タオルで体を拭くだけです。
重力の助けなしで食べることは問題です。
せんべいを食べるとき、それはあちらこちらに飛び散ります。
スープを飲むときは、ストローを使う必要があります。
しかし、概して、宇宙での生活はとても快適であることに私は気づきました。
3
 私たちは、科学実験で非常に忙しかったです。
しかし、私たちは、いくつかの教育的な実験にも時間を使いました。
私はカナダの宇宙飛行士と腕相撲をしてみました。
驚いたことに、私たちの体はどちらも回転し始めました。
別の実験では、私は書道を試しました。
私は多過ぎるほどインクを使いましたが、それは滴り落ちませんでした。
私のお気に入りの実験は、「魔法のじゅうたん」でした。
私は足にテープを貼り、カーペットにくっつけました。
それは魔法のようにうまく働きました、私は宇宙を飛んでいました!
 最後に1つ言わせてください。
宇宙に行くことは恐ろしい経験です。
多くの危険があります。
それでは、なぜ私は宇宙に行くのでしょうか?
それは挑戦であり、それは人類にとって重要ですから、私はそれを行うのです。
世界中から来た宇宙飛行士たちが一緒に仕事をしています。
この経験を通して、私は、私たちは地球の住民として、共通の人類であると考えるようになりました。
私たち1人1人は、宇宙船地球号の乗組員であることを忘れないでください。

 若田光一氏からのメッセージ
 私たちは日本の島々に住んでいますが、私たちの国が持つ、この地球上の、他の多くの地域との、世界的な繋がりを、否定することはできません。
とはいえ、自分の快適な場所にとどまることは、とても容易いことです。
異文化との交信と交流の挑戦が、高い利益をもたらすということを、私は知りました。
私は人生において、国際的な友好と職業上のやり取りから、深い洞察力と知識を得ることができました。
私が1つの場所にとどまることを選んだならば、このことのすべてが可能ではなかったでしょう。
 未知なるものを探求することは、私たちが宇宙へ行くことでできることですが、この惑星にもまた、多くの未知なる地域があります。
新しい学校、初めての仕事、問題に対する新たな見方など、快適な場所の向こう側へ敢えて行くことで、探検家になのです。
第一歩はいつも難しいですが、しばらくすると、その経験なしでは、もはや生きることはできません。
 日本の若者に、人生における自分のゴールを見つけて、それにたどり着く方策を、開発する努力をして欲しい。
熱意と勇気と自分の可能性を信じることは、そこへ至らせる最も効果的な燃料の混合物です。
ひとりひとりが、他に類のないことを決して忘れないでください。
 生命には、職業上の責任と、余暇、スポーツ、そして家族や友人との良質な時間のバランス(をとること)が必要です。
回りの人と、よく、意思疎通をはかることは、絶対に必要です。
寛容さと、相互に尊敬し合うことと、異なる視点から物事を見る能力は、小さなそして大きな戦争を避けるのに役立ちます。
他人の力を尊重し、協力し、援助が必要なら、それを求めることを、決してためらわないでください。
若田光一 JAXA(宇宙航空研究開発機構) 宇宙飛行士


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2013年06月16日

Crown E.C.1 Lesson 2

 人生の真の意味は、木を植えることである。しかしその木の陰に座ることを期待してはならない。
― ネルソンヘンダーソン
 海の森
世界中の大都市の中で、東京には、ロンドン、パリ、またニューヨークより少ない緑地しかない。
東京にはもっと多くの公園が必要である。
しかし、どこに大きな新しい公園を置くことができるだろうか?
東京と安藤忠雄氏(世界的に有名な建築家)が、答えを出した。
すなわち、東京湾である。
1
 ロンドンのハイドパークは2.35平方キロメートルである。
ニューヨークのセントラルパークは、3.4平方キロメートルである。
パリのブローニュの森は8.5平方キロメートルである。
東京の皇居の敷地は1.15平方キロメートルである。
東京には、もっと多くの緑地が必要である。
 2005年には、東京は東京湾に大きな公園を建設する計画を立てた。
新しい公園は、「海の森」と呼ばれている。
それは人々をより自然へ近づけ、都市へ清々しい空気をもたらすだろう。
 海の森は、埋立地の上に建設される。
ほぼ50万本の木、1つの池、そして1つの潮のプールがある。
あらゆる種類の鳥が、この新しい公園に巣を作るだろう。
観光客は、バードウォッチングそしてキャンプでさえ楽しむことができるだろう。
 誰もがその新しい公園はいつオープンするのかと思っている。
木というものは、十分に大きくなるまでに、およそ30年間かかる。
しかし、近い将来、その公園の使用が開始されることを期待する。
2
 埋め立て地の歴史は江戸時代初期にまでさかのぼる。
18世紀には、江戸は、100万人以上の人口を持つ、世界最大の都市であった。
江戸が成長するにつれ、人々もだんだんと増え、ゴミもさらに増えた。
彼らはそのすべてのゴミをどうするつもりだったのだろうか?
答えの一つは、東京湾の埋立地に廃棄物を捨てることであった。
このようにして、社会の廃棄物は、使用可能な土地に変わったのだ。
現在の江東区に、江戸時代の人々が廃棄物を如何にうまく処理していたかを見ることができる。
江東区は、埋立地の上につくられた。
150年前、江東区の多くは海の下だった。
さらに最近になって、羽田空港とお台場のレクリエーションやショッピングエリアが埋め立て地に建てられた。
 埋立地には多くの用途があるが、それらは大気汚染や水質汚濁の原因となるかもしれない。
今や、1300万近くの人口で、東京は環境について、もっともっと心配し始めている。
海の森は、埋立地の上に建設されるが、それは汚染の問題を解決するのに役立ち、より多くの緑地を作り出すよう設計されている。
3
 安藤忠雄氏は海の森を計画するのを最初から手伝っていた。
彼はまた表参道ヒルズや光の教会にも取り組んできた。
彼はデザインで多数の国際的な賞を受賞している。
 安藤氏は日本の伝統の暮らしは自然と調和していると考えている。
彼はプロジェクトの多くで、都会の生活に自然を持ち込もうとしている。
安藤氏のプロジェクトの一つは、日本の瀬戸内海の汚染された島に木を植えることであった。
もう一つのプロジェクトは、大阪に数千本の桜の木からなる「桜ライン」を作ることであった。
 安藤氏は、海の森プロジェクトが、世界中の人々を奮い立たせることを期待している。
彼は次のように述べている。
「私たちが地球を維持したいのなら、私たち皆が環境を守るために作業を開始しなければなりません。新しい公園は、私たち自身の廃棄物の山の上に作られています。それで私はそれが循環型社会における世界の手本になることを期待します。」
4
 多くの人々が海の森プロジェクトを手伝っている。
200人の小学生が公園にドングリを植えた。
U2のリードシンガーであるボノ氏、そして宇宙飛行士の毛利衛氏もまた、木を植えた。
 ワンガリ•マータイさんもまたこのプロジェクトに参加した。
彼女はアフリカの女性として初めてノーベル平和賞(2004)を受賞し、グリーンベルト運動やもったいない運動の創設者である。
彼女は2008年、世界の指導者会議に出席するため日本にいた。
彼女は公園の土地を訪れた後、こう言った。
「指導者は三つのRについて話すでしょう。(すなわち、)リユース(再使用する)、リデュース(減少させる)、リサイクル(再生利用する)についてです。
私は、彼らがまた、もったいないという考えを発見することを期待します。
地球温暖化は私たちの生活に大きな変化をもたらすでしょう。
私たちは今や、地球を緑にしなければなりません ― 私たち自身のためだけではなくて、子供たちのためにも。」
 海の森は、まさにそれをするのに役立つだろう。
東京と安藤忠雄氏は、それが成功することを願っている。
そして、私たちの多くが、その成功が成長し、世界中で広がることを願っている。

 江戸時代の持続可能な営み
 我々の先祖は、我々より、環境に気を配っていただろうか。
江戸時代の自然保護とリサイクルが、彼らのしていたことを示唆する。
 我々の先祖がどのようにして、廃棄物を処理していたか、よく考えてみよう。
農民はそれを集め、肥料として使った。
作物は育ち、そして、都市の廃棄物は処理された。
 どのようにすれば、冷凍と真空パックなしで、長期間食物を保存することができるのか。
江戸時代、魚と果物は、天日で乾燥させた。
野菜は、塩水につけ、保存した。それらは、調理するこなく食べられた。これは燃料の節約になる。
 我々は照明を電気に依存し、それを得るために、大量の燃料を燃やしている。
我々の先祖は、魚油と菜種油を燃やすランプや、ハゼノキからつくられるロウソクで、家の中を照らした。
 我々の先祖は、何も無駄にしないようにした。
米わらを考えてみよう。
わらぶき屋根や畳の材料としてばかりでなくて、草鞋(わらじ)や蓑(みの)、雪沓(ゆきぐつ)、弁当箱にもそれが使われた。
 我々は先祖から自然保護について多くを学ぶことができるが、同じ方法が今日でも使えると思うのは間違いだ。
18世紀半ば、日本の総人口は、現在の東京首都圏のそれより少ない、わずか3000万人だった。
もっと多くの人々が、より多くの廃棄物を生み出し、より多くの資源を必要とする。
当時は、日本人のわずか8パーセントしか、都市に住んでいなかった。
廃棄物と資源の管理は、大都市よりも、村の方がより簡単である。
結局、我々の先祖の生活は、厳しく、短かった。
つい1890年まで、平均寿命は、男性で43歳、女性で44歳で、これは、現在のまさに最貧国のそれとほぼ同じである。
 我々は江戸時代に戻ることはできないが、先祖から学ぶことができる。
すなわち、資源は賢く使え。浪費するな。エネルギーは大切に使え。
再利用できるものはすべて、リサイクルしろ。である。
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posted by sakai shinji at 13:27 | Comment(6) | Crown E.C.1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Crown E.C.1 Lesson 3

「最も遠くまで行く人は、一般に進んで行動し、挑戦しようとする人である」
デールカーネギー
国境なき作家
私たちは、特定の言語と文化に生まれている。
しかし、私たちが望むなら、私たちは自分の人生を変えることができる。
これら3人の作家は、言語と文化の国境は越えられることを私たちに教えてくれる。
1
中国の作家ヤン・イーさんは芥川賞を受賞した最初の非ネイティブの日本語スピーカーである。
彼女の小説である、「時が滲む朝」は、新たな生活を求めて日本に移動する中国の学生について書かれた作品である。
ヤンさんは22歳で日本に来たとき、日本語の単語を話せなかった。
彼女が日本語を学ぶことには多くの楽しみがあった。
彼女はレッスンを受け、そして授業後は、できるだけ多くの日本人と話すことで練習した。
「私は、親切に見える人なら誰にでも話しかけました。言うには及ばないことしかない場合でも、自転車の駐輪場で働くおじさんに話しかけました。」
と、彼女は説明している。
彼女はまた、他の人の会話に耳を傾けた。
「私は2、3個の単語がわかったときでさえ、幸せでした。」と、彼女は言う。
「それは一日中私を興奮させました!」
2
イラン生まれのシリン・ネザマフィさんもまた、日本語で受賞小説、「白い紙」を書いた。
それは、イラン•イラク戦争中における2人の高校生の愛の物語である。
ネザマフィさんが日本語で小説を書くことは特に困難だった。
問題は、彼女の母国語である、ペルシャ語は、漢字を使わないということだった。
ネザマフィさんは19歳の時に来日して勉強し、現在はエンジニアとして働いている。
「私は高校で1年間日本語を勉強しました。でも、私がここに来たとき、私は簡単な挨拶と20か30の漢字しか知りませんでした。」
と、彼女は言う。
最初、彼女がコミュニケーションをとるのは大変だったが、彼女はクラスメートと話してみた。
彼女は、それには多くの楽しみがあることがわかった。
彼女は次のように言う。
「教室は笑いに満ちていました、そして面白い事が毎日起こりました!
もちろん、日本語で小説を書くことは大変です。
でも、私は14歳からずっと小説家になりたいと思っていましたし、それには新しい仕事を引き受ける楽しさがあります。」
3
外国語で書く日本人に関してはどうだろう?
多和田葉子さんは大学を卒業した後、ドイツのハンブルクへ移った。
彼女は日本語とドイツ語の両方で書いている。
彼女は、多くの小説を日本語で書いてきた。
彼女の最も人気のある書籍の1つ、「犬婿入り」は日本の昔話に基づいている。
彼女は、いくつかの書籍をドイツ語で書いている。
そのうちの1つは、ドイツ文化へ貢献したとして賞を受賞した。
ドイツに来て最初の年、多和田さんは、あらゆる新しい経験とドイツ語学習の難しさから回復するのに1日9時間以上眠った。
今日でさえ、ドイツ語は彼女には難しい、でも彼女は挑戦を楽しんでいる。
「ドイツ語は今や、私の日々の言語であり、私は自分の気持ちを明確に表現することができます。
でも、書くとなると、今だに苦労します。
それでも言語を学ぶことには多くの楽しみがあります。
なぜなら、言葉は新しく、新鮮だからです。
これは、自由の感覚を与えてくれます。
それはほとんど、子供に戻るようなものです。」
と、彼女は説明している。
新たな文化の中で外国語を習得したり、生活することは、我々の多くにとって大きな挑戦である。
しかし、あなたがその挑戦を受け入れるなら、それはあなたに新しい視点を与えるだろう。
ヤン・りーさん、シリン・ネザマフィさん、そして多和田葉子さんは、言語と文化の国境は越えられることを私たちに教えている。
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2013年06月18日

Crown E.C.1 Lesson 4

「沈黙の次に、表現できないことを表現できるのに最も近いものが音楽である」
― オルダス•ハクスリー
耳で(覚えて)演奏する
ある盲目のピアニストがとても上手に弾けることに誰もが驚いた。
しかし、すぐに彼らは、彼が盲目であると考えさえしなくなった。
その演奏家は、20歳のピアニスト、辻井伸行氏だった。
彼の友人は彼をノブと呼ぶ。
彼は世界中にセンセーションを巻き起こした。
1
 ノブの両親は息子が盲目であることを知ったとき、とても悲しんだ。
しかし、すぐに彼らは、息子には特別な才能があることを発見した。
ノブは2歳のとき、母親が「ジングルベル」を歌うのを聞いた。
数分後、彼はおもちゃのピアノでその曲を弾くことにより、母親を驚かせた。
 ノブは4歳でピアノのレッスンを受け始めるとすぐに、彼の記憶力で教師たちを驚かせた。
ノブはタッチで音楽を読み取ることができるが、耳で覚えることが好きである。
彼は彼のために録音されたテープを聞き、聞こえるものを記憶する。
 ピアノは、ノブの大のお気に入りである。
彼は特にドビュッシー、ショパン、ベートーベンが好きである。
彼はジャズを弾き、一度、人気ミュージシャンのスティービー・ワンダーに会う機会を得た。
彼もまた、生まれつき盲目である。
2
 ノブは20歳のとき、世界で最も有名な大会の一つである、ヴァン•クライバーン国際ピアノコンクールに参加しようと決めた。
それは、テキサスで4年ごとに開かれる。
この出来事が彼の人生の転機だった。
ノブと彼の母親は、テキサスに飛んだ。
彼らはアメリカのホストファミリーに会った。
ディビッドソン家の人たちは暖かくノブと彼の母親を歓迎し、2人がくつろげるよう最善を尽くした。
彼らはまた、ノブと彼の母親のために日本の炊飯器さえ用意した。
 コンクールの3週間、ノブは、毎日何時間も練習した。
彼がピアノを弾くと、その美しい音楽は、ディビッドソン夫人を泣かせた。
「私は彼の演奏を聞くと、よく泣きます。泣いていないときは、鳥肌が立ちます。」と、彼女は言った。
近所の人でさえ、ノブの音楽を愛した。
彼らはディビッドソン家の人たちに家のドアや窓を開けておいてくれるよう頼んだ。
つまり、彼らはノブが毎朝練習するのを聞きたかったのだ。
3
 3週間後、賞が授与される日が来た。
優勝者には20,000ドルと、世界中のコンサートツアーに行く機会が与えられる。
それは、どの若い音楽家にとっても夢である。
誰もが発表されるのを切望して待っていた。
 最初に、準優勝者が呼ばれた。
それは、ノブの最も親しい友人の一人になっていた韓国のピアニストであった。
そして、それから優勝者が発表された。
それは、中国の19歳のピアニストであった。
ノブは、負けたと思ったが、それでも決勝出場者の1人であることに幸せを感じた。
彼はオーケストラと2つの協奏曲を演奏することができた。
彼は勝者ではなかったが、彼はそれでも幸せだった。
 しかし、しばらくして、彼の名前が呼ばれた。
優勝者が2人いたのだ。
ノブと中国人ピアニストの両方が金メダルを受賞した。
ヴァン・クライバーンは、ステージで彼を抱きしめた。
涙がノブの目から流れた。
それは、彼の家族、教師、そして友人たちの助けと支援への感謝の涙だった。
4
 ノブの母、逸子は、後に書いている。
「伸行は私にとても大切なことを教えてくれました。
それは、本当に何かがやりたくて、一生懸命努力すれば、夢は叶うということです。
彼は4歳のときレッスンを受け始め、それ以来、ほぼ毎日ピアノを弾いてきました。
彼は一生懸命努力したので、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝できました。
私は彼がやったことを本当に賞賛します。」
ノブのピアニストとしてのプロ人生は始まったばかりだ。
彼は次のように言う。
「私は人々に、たまたま盲目である1人のピアニストとして、私の演奏を聞いて欲しいです。
この金メダルは出発点に過ぎません。
私はもっと勉強し、いつか世界中に知られる偉大なピアニストになりたいです。」
「もちろん、私は両親や、星や、海や花火を見てみたです。
でも、私は自分の心の目でそれらを見ることができるし、それで満足なので大丈夫です。」
と、彼は付け加えた。

 父
 父は、音楽のことをあまり知らない。
私が演奏すると、母は興奮するが、父は冷静でいる。
父と私は、ピアノについてめったに話さない。
私たちは食べるのが好きだ。
私たちが寿司バーへ行くと、寿司について話す。
 私が7歳のとき、私はコンテストで一位を獲得した。
母はとても喜んだが、父は私に警告した。「君より優れた人が、常にいる。」と。
父は私に、「ピアノを弾くことよりも、生きるためにもっとやることがある。学校でもっと勉強しなさい。」と、言った。
 私は中学生の頃、父に反感を持っていた。
父が私にもっと勉強するように言うと、私は、「しつこく言わないで。自分がしていることはわかっているから。」と、言ったものだった。
 私が17歳のとき、ショパン・コンクールが終わると、友人たちが来て、一緒に私の将来の計画を手伝った。
その話し合いで、父は言った。「私が望むことは、ノブが独立して、食べたい寿司をすべて食べることだけだ。それが私の望みのすべてだ。」と。
 私が父をどう思っているかを、言葉で言い表すのは難しい。
かつて、私は「川のささやき」という短い曲を書いた。
それは、父と美しい川沿いを歩いたこときのことを表現している。
私は、父に対する私の気持ちを表現しようとした。
 今は私ももう大人になったので、ピアノを弾くだけではなく、色々なことがしたい。
泳いだり、スキーや登山もしてみたい。
美術館にも行きたいし、コンサートにも行きたい。
ガールフレンドも欲しい。
これがまさに、私が少年の頃、父が言っていたことだ。
 近頃、私はワールドクラスのピアニストになることを夢見る。
私は、父と世界中を旅するだろう。
私たちは外国のレストランに座り、新しい食べ物について語り合うだろう。
 私にガールフレンドができたら、父のアドバイスを注意深く聞くだろう。
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2013年06月23日

Crown E.C.1 Lesson 5

 夢を持つことにより、私たちは生き続けている。
困難を克服することは人生を生きる価値のあるものにし続ける。− メアリー・タイラー・ムーア
 フードバンク
フードバンクは、企業、スーパーマーケット、農場主から余分な食品を収集し、援助を必要とする人々に配給をしている福祉団体にそれを与える。
チャールズ・E.マクジルトンは、日本で最初のフードバンクであるセカンド・ハーベスト・ジャパンを開始した。
1
 1991年、私は、多くの日雇い労働者がいた東京のある地域に住む、大学の交換留学生だった。
彼らは毎日仕事を探していたが、経済が下降すると、仕事を見つけることができなかった。
私はよく、彼らが路上で寝ているのを見た。
彼らの生活は容易ではなかった。
多くの男性が飲酒常習者になった。
私は彼らを理解することができる。なぜなら、私は高校で飲酒常習者になったからである。
飲酒をやめることは簡単ではないが、人は自分の生活を変えることができ、それが遅すぎることはない。
 数年後、私は自助センターを作ることにした。
右の“ツール”(住所、電話番号、物を貯蔵したり、風呂に入ったりする場所)がなければ、通りから離れるのは難しい。
このセンターは、人々に、その自らを助ける“ツール”を与えた。
しかし、1997年までに、私は自分の中に、欠けているものがあることに気づいていた。
私はホームレスであることについて“頭の知識”はたくさんあったが、“心の知識”が欠けていたのだ。
2
 1997年1月から1998年4月まで、私は隅田川沿いで、段ボール生活をした。
この経験は私を変えた。
私は、ホームレスの人の目で世界を見た。
私はホームレスであることを経験し、毎日飢えた人々を見た。
驚いたことに、私の隣人たちは希望を失わなかった。
彼らは様々な方法で私を助けてくれた。
多くは、缶の収集のような、何がしかの仕事をしていた。
私は日本の会社で、同僚に自分がどこに住んでいるか言わずに働いていた。
私は毎日、人は人であることがわかった。会社で働こうが、路上に住んでいようが問題ではない。
 日本人の15%が貧困の中で暮らしている。
これは先進30ヶ国の中で、4番目に高い比率である。
それは年配の人たちになると、さらに高くさえなる。
日本では少なくとも78万人は、毎日十分に安全で栄養のある食物を食べていない。
私は、小さな2人の子供を持つシングルマザーから電話を受けた時のことを覚えている。
その日、彼女は、下の子が食べられるように、上の子に食事を諦めるよう頼まなければならなかった。
このようなことは日本でさえ、毎日起きている。
3
 最初のフードバンクは、1967年にアメリカで始まった。
日本で、私たちは2000年に活動を開始し、2002年3月にはセカンドハーベストジャパンと呼ばれるNP0(非営利組織)となった。
私たちの名前は、“収穫”余剰食品の考え方から来ている。
 私たちは食料を必要とする人々に、それを与えるばかりではなくて、企業がお金を節約できるよう手伝う。
2010年には、5億円以上に相当する食品を“収穫した”。
企業は8000万円の節約ができた。なぜなら、売れ残った食品を処分する必要がなかったからである。
私たちの仕事で、信頼はとても大切である。
 信頼が得られれば、食べ物や財政支援は自然とついてくる。
私たちは企業へ出向いて次のように言うことはない。「私たちに食べ物かお金を頂けませんか」と。
私たちは、彼らを対等なパートナーだと考える。
私たちは彼らに私たちの活動について話し、彼らにこう尋ねる、「私たちが一緒にできることはありますか?」と。
 NPOは日本ではまだ新しい。
NPOが成長し、より専門的になるにつれて、人々は、自分たちはもっと大きな役割を社会で果たすことができるということがわかるだろう。
何か良いことをやりたいと思うだけでは不十分である。
重要なことは、NP0をどう経営するかである。
セカンド・ハーベスト・ジャパンは独特である。なぜなら、我々は、ビジネスと福祉の両方に対処するからである。
4
 他の人を“助けること”は簡単ではない。
私たちは、「私はあなたを助けることができますか?」と言うと、ときどき間違ったメッセージを送ってしまう。
私たちは、良かれと思ってやっているのだが、ときどき、「あなたは大丈夫ではありません、あなたは変わる必要があります。」というメッセージを送ってしまう。
私はむしろそれをこのように考えたい、「あなたの自転車のタイヤ、パンクしたようですね。道具と当て布が必要でしたら、ここにありますよ。あなたが自転車を修復するとき、人手が必要なら、私もそばにいることができますよ。」
これは私が隅田川沿いでの経験から学んだことである。
 私の仕事は、どんな社会に住みたいかについての投票である。
食品もまた“ツール”である。
私は、これらの“ツール”を手に入れ、それを必要とする人々に届ける手段がある社会に住みたい。
私は自分の仕事を人々を“助けること”と考えるのではなくて、むしろ余分な食品を、それを使える人々と一致させることと考えている。
私はこれらを一致させることに夢中である。
それは私の仕事をとても楽しくするものである。

 2HJボランティアの人たちの言葉
 「私は、大学生で、喫茶店でアルバイトをしています。 
そこでは、多くの食物が捨てられ、私は、「何という浪費だろう。」と、考えます。
私は、友人から2HJについて聞きました。
私は、たいてい、金曜日の調理活動に参加し、食物の寄付を受け取る手伝いもします。
私は、また、上野公園で食物をホームレスに配る手伝いもしました。」

 「私は、2HJの集配車の運転に、私の時間を、1週間当たり、平均して1日使いました。
私は、ほかのボランティアの人と、時々、テトリスをしているみたいだねと冗談を言っていました。なぜなら、寄付がしばしばとても多くて、そのすべてをバンに詰め込むには、考えなければならなかったからです。
その場の雰囲気は、おもしろく、家族のようです。」
 
 「これは、ボランティアとしての私の初めての経験です。
それは私が予想していたよりもおもしろいです。
また、外国出身のボランティアもたくさんいるので、私はこれを英語を学ぶ時間として使えます。
けれども、私は、私たちが実際にやっていることは、むしろ簡単であることを認めなければなりません。
私たちは、ただ野菜をぶつ切りにし、食器を洗うだけです。
でも、ほかのボランティアの人や職員の人たちと雑談するのは、とても楽しいです。
皆がそれぞれの経歴を持ち、様々な話があります。
共に働くことで、私が人々との関係を築くようになるのは、素晴らしいことです。」
 
 「私は引退した教師です。 私が2HJで行った最初のボランティア活動は、たまたま私の元学生であった2HJ職員のひとりと、食物を届けることでした。
今、私は、毎週金曜日に食糧配給所の準備を整え、土曜日にその活動の手伝いをしています。
私は、ほかの人のために何かをし、それと同時に新しいことを覚えられ、とてもうれしく思います。
また、様々な人々に会うことができるのも、すばらしいことです。
2HJが、近い将来全国規模の関連組織になることを願っています。」

 「2HJなどの非営利団体は、同じ様な関心を持つ人たちの集まりです。
それは趣味クラブに参加するようなものだと思います。
ボランティアは、大学のクラブのようものの一員になるいい機会です。
これは、私が、2HJでボランティアを始めて以来、認識していることです。」

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2013年06月24日

Crown E.C.1 Reading 1

愚か者の知恵
 マラ・ナーズルディーンは、ときどき愚か者のように振舞う賢い男だった。
彼について語られる面白い話がたくさんある。
それらは中東と中央アジアでよく知られている。
イソップ物語のように、教訓を含むものもあれば、一休さんの話のようなものもあり、更に、単なる冗談話もある。
1 後ろ前
 マラ・ナーズルディーンのところに生徒らが訪ねてきた。
彼らは彼の授業が聞きたかった。
彼は同意し、彼らは教室へ向かって出発した。
生徒たちはマラの後ろを歩いた。
彼はロバに後ろ向きに座っていた。
人々がじろじろ見始めた。
彼らは、マラは愚か者で、彼に付いて行く生徒は更に愚かであると考えた。
ロバに後ろ前に座った男の後ろを誰が付いて行くだろうか。
 少しして、生徒たちがマラにこう言った。
「あぁ、マラ先生!人々が私たちを見ています。なぜそのように乗るのですか。」
 ナーズルディーンが言った。「あなたは自分が何をしているかよりも、人が何を考えているかを気にしている。私がそれをあなたに説明しよう。あなたが先頭を歩けば、それは私に対して無礼である。なぜなら、あなたは私に背を向けるからだ。私があなたに背を向け前を向いてロバに乗れば、それはあなたに対して無礼である。これがうまくいく唯一の方法なのだ。」と。
2 真実は決して変わらない
 ある有名な先生が古代哲学についてスピーチをしていた。
マラ・ナーズルディーンは注意深くそれを聞き、それから質問した。
 「世界はこの哲学が書かれた頃から大きく変わりました。現代でもそれは真実ですか?」と。
 「もちろん、そうです。」と、先生が答えた。それから、彼はナーズルディーンを笑った。
 「これは無学な人がいつもする質問です。真実は決して変わりません。」
 しばらくして、マラ・ナーズルディーンは仕事が必要になった。
 彼は庭師の広告を見て、申し込んだ。
有名な先生は広告を出した一人だった。
 「あなたはかなり年をとっていますね。この仕事をするのに十分強いとは思えません。」と、先生が言った。
 「時はそれと関係ありません。私は20年前強かったですし、真実は決して変わりません。」と、ナーズルディーンが言った。
 先生は迷ったが、ナーズルディーンに仕事を与えた。
 次の日、先生はナーズルディーンに100キロの石を庭のある場所から別のところへ動かすように言った。
マラはその石を見て言った。「私をそれを動かせません。」
 「あなたは20年前と同じように強いと言ったと思いますが。」と、先生が言った。
 「その通りです。私は20年前と全く同じように強いです。その時も100キロの石は動かせませんでした。」と、ナーズルディーンは答えた。
3 スピーチの仕方
 マラ・ナーズルディーンはモスクの金曜日の礼拝で3つのスピーチを頼まれた。
しかし、ナーズルディーンは怠けた。
彼は手遅れになるまで、スピーチの準備を延ばしていた。
彼はモスクで人々の前にいることに気づいたが、何も言うことがなかった。
彼は何か考えようとしたが、ついに、それ以上時間かせぎをすることができなくなった。
 「皆さんのうち何人の人が、今日私が言おうとしたことを理解したでしょう?手を挙げてください。」と、彼は頼んだ。
 誰も手を挙げなかった。なぜなら、彼らはナーズルディーンが何を言おうとしたのかわからなかったからである。
ナーズルディーンは笑って言った。「私はなぜこのような無知な人々のために時間を無駄にしなければならないのでしょうか。帰って来週はもっとよく準備して来なさい。」と。
 次の金曜日もなお、マラ・ナーズルディーンは話す準備をしなかった。
彼は立ち上がり、同じ質問をした。
今回は、皆が手を挙げた。なぜなら、愚かなところを見せたくなかったからだ。
マラ・ナーズルディーン微笑んで言った。「よろしい!私が何を言いたいのか皆さんが理解しすれば、私は皆さんにさようならを言わずにすむでしょう。」と。
 次の金曜日、人々は前もって計画していた。なぜなら、マラ・ナーズルディーンにまた同じ策略で、うまくやってのけさせたくなかったからだ。
彼が同じ質問をすると、彼らはわけ知り顔でお互いに見合わせ、彼らの半数が手を挙げ、半数は挙げなかった。
しかし、またもやマラ・ナーズルディーンは彼らを出し抜いた。
彼は言った。「すばらしい。皆さんの中で、私が何を言いたいかがわかった人が、わからなかった人に教えればよいでしょう。」と。
そう言って、彼は帰っていった。
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タグ:crown 和訳
posted by sakai shinji at 23:02 | Comment(0) | Crown E.C.1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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