2014年04月19日

Polestar E.C.2 Lesson 1

 日本での暮らしで、気に入っていることは何だろう。
同じく、嫌いなことは何だろう。
このレッスンでは、数名の外国人に、日本での暮らしをどう見ているかについて、話を聞こうと思う。
1
 2009年10月、ある興味深い記事が、イギリスの雑誌エコノミストに掲載された。
それは、世界33カ国で実施された調査についてのものだった。
その調査は、人々がどれほど自国に対し、賞賛、信頼、尊敬、そして誇りの念を抱いているか、というものだった。
アメリカが11位であるのに対し、オーストラリアは1位、中国は7位だった。
リストの一番下は日本だった。
日本の回答者は、自国を高く評価しなかったようだ。
 しかし、日本以外の多くの人々は、もっと好意的にその国を見ている。
例えば彼らは、その国を高い教育水準やファーストクラスのサービスを備えた、安全で安定した場所である考えている。
毎年、英国の主要な放送局であるBBC放送は、世界によい影響を与えている国はどこだと思うか、と人々に意見を求めている。
これらの調査では、日本は、常に一番上、またはその近くにある。
その国は、 2007年にはカナダと、2008年にはドイツと1位を分けた。
2
 日本に住む外国人は、日本と日本人についてどう考えているだろうか。
例えば、中国出身のイン・ウェンイーさんは、日本人のマナーに感動している。
彼女は、日本人が電車に乗るとき、中国人とは違って、辛抱強く並んでいることを指摘している。
そこ(中国)では、列車の乗客は、他の誰よりも先に列車に乗り込もうとするのだ。
 東日本大震災の後まもなく、インは日本を離れることにした。
彼女が駅へ行くと、エスカレーターが停止していた。
彼女が重いスーツケースを持って、苦しみながら階段を登っていると、一人の日本人女性が近づいて来た。
「手伝いましょうか?私たちは皆、辛い時を過ごしていますよね。」」と、彼女は言った。
その瞬間、インはきっと日本に戻って来るだろうと思った。
 ミャンマー出身の、マン・ミャット・スーさんは、日本人の勤勉さを賞賛する。
彼女が日本でアルバイトを始めたとき、彼女は、お客がまったくいないときでも、何かやるべきことを探しなさいと言われ、驚いた。
そのような仕事への献身は、彼女にはない考えだった。
3
 批判ももちろん、ある。
日本への外国人観光客は、ときどき、日本人はとても内気で、容易に心を開かないと感じる。
しかし、アメリカ出身のダイラン・ダビニィは、日本人は心を開くことができると考えている。
彼らには、個人的な関係を築くために、時間が必要なだけであると。
 日本は、一つの宗教を信仰するということがないと、批判する外国人もいる。
しかし、スペイン出身のロード・ドメネクは、その状況を好ましいものとして捉えている。
「とにかく、宗教団体は様々ですが、互いに争わないのです。」と、彼女は言う。
さらに続けて、「本当に日本は、強い信仰心を持っている他の多くの国々よりも、安全で平和的です。」と。
 トルコ出身のビロル・グンドゥズは、日本人には、イスラム教徒と共通点があると考えている。
彼は、イスラムでは、自分と周りの人との関係において、誠意、丁寧、正直、そして誠実であることが重要だと指摘している。
「日本人は、それと同じ理念を、日々の暮らしの中で共有している。」と、彼は言う。
4
 これらの意見は、日本に住む外国人によって語られた、多種多様な意見のほんの数例であるが、彼らは、彼ら自身の文化に基づいた外部からの見方を、日本人に与えるという点で価値がある。
 このような人々は、日本に来るとき、大きな冒険心を持っていたに違いない。
この状況を反対側から見るとどうだろう。
多くの日本人が、その精神を共有しているだろうか。
学生に限って言えば、勉強のために海外へ行くことを選択することは、ますます少なくなっている。
文科省によると、 その数字は、2004年をピークに、大きく減少し始めた。
実際、2007年と2008年の間だけで、海外で学んでいる学生の数は11%も減少した。
 イン・ウェンイーは、日本の若者は、自由であることを生かして、海外に行くべきだと考えている。
「日本のパスポートを持っていたら、事実上世界のどこへでも行くことができます。」と、彼女は言う。
それは中国人の羨むところだと、彼女は指摘する。
「日本の若者はもっと真剣に外国語を覚え、そして世界へと出て行き、自分の目でそれを見るべきです。それは日本の将来にとって、とても役立つでしょう。」と、彼女は付け加える。


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2014年04月21日

Polestar E.C.2 Lesson 2

 コアラは、オーストラリアで最も有名な動物の上にあります。
しかし、さまざまな理由で、その数は減少している。
ここでは、この人気の動物を保護するいくつかの試みを読んでみよう。
1
 人口増加と人間の活動は、ますます世界中の野生動物に影響を与えている。
オーストラリアはこの良い例である。その種の多くは、今や絶滅の危機に瀕している。
観光客にとても人気があるコアラでさえ、絶滅への道にいるようだ。
2003年に、野生のコアラの数は、約10万頭であると報告された。
それが、2009年までには、8万頭に減り、2011年には、わずか4万頭に落ち込んだ。
 急激な減少のため、コアラ保護グループである、オーストラリアコアラ基金(AKF)は、公式に絶滅危惧種としてコアラを認定するよう、政府に要求した。
グループは、公式の保護なしでは、30年以内に、コアラが絶滅するかもしれないと予測した。
科学者たちは、150年前までは、およそ1千万頭いたと考えている。
なぜその数は急激に減ったのだろうか。
一つの理由は、欧州の入植者が、多くの森林を伐採し、都市を構築し、農地を作ったからである。
もう一つの理由は、市街地から遠い森林が、火災や干ばつによって破壊されたからである。
その結果、コアラは、彼らの自然の生息地の広い範囲を失った。
2
 しかしながら、環境破壊だけが、コアラ減少の理由ではなかった。
19世紀には、その毛皮が狙われ、広く狩られた。すなわち、50年に渡り、少なくとも300万頭が殺された。
 最終的に、人々が抗議し始めた。
1930年には、政府が行動を起こし、コアラを保護する法律が可決された。
しかしながら、この新しい保護政策にもかかわらず、コアラの数は、彼らの主な食料源である、特定のユーカリの木の葉の喪失のため、減少し続けた。
過去2世紀の間に、ユーカリの木を含む森林のおよそ80%が消失している。
 それゆえ、さらなる試みがコアラを保護するためになされた。
一つの例は、自然保護区にコアラを移すというプロジェクトだった。
しかし、彼らの新しいすみかで、多くのコアラが弱り死亡した。
原因を究明するため、数名の研究者は、コアラを注意深く研究し始めた。
これが1986年のAKF設立につながった。
3
 コアラの習慣や生息地の研究を通して、AKFは、彼らが生き残るには一定の条件が必要不可欠であるとわかった。
これらの条件には、餌、敵からの保護、生活するのに十分なスペースが含まれる。
 まず、コアラは、彼らが好きな種のユーカリの木の葉しか食べない。
オーストラリアには、およそ600品種の様々なユーカリの木があるが、これらのほんの数十種類しか、コアラの餌としては提供できない。
 第二に、コアラには、彼らが眠ることができて、子供を育てることができる大きい木が必要である。
コアラは、1日のうち20時間ほど寝て過ごすので、ディンゴのような天敵から身を守るために、木は高くなければならない。
 第三に、有力な雄のコアラは、自分自身の空間なしでは生きることができず、その広さは、場合によっては、サッカー場40個分以上になる。
雌と子供のグループがこの空間の周りで生活し、各グループは自分たちの空間を占領する。
自分自身の縄張りを持つ若い雄もいる。
 これらの難しい条件のすべてを満たすことができた土地だけが、コアラのグループを健康に維持することがでる。
4
 AKFは、コアラの脅威を人々に認識させようと様々な活動を行っている。
その一つに、ユニークな里親プログラムがある。
このプログラムでは、人々が、動物保護施設でコアラを育てるため、AKFにお金を寄付している。
財団は、彼らに採用された子供の証明書と写真を送り、公式に「里親」として指名する。
 インターネットによって、オーストラリアだけでなく、世界中の人々が、このプログラムに容易く参加できる。
採用された子供を訪ね、その成長を観察する人さえいる。
このように、このプログラムは、ドナーに喜びを、コアラに暮らしを与え、また彼らが直面する問題を宣伝する。
 もう一つは、AKFのコアラ生息地地図である。
AKFは、人々に、コアラの占有区域に家を建てないよう促す。
さらに、その地図は、そのような区域に、新たな道路を作るのを止めさせるのに役立っている。
AKFのウェブサイトを訪問すれば、かわいくて、毛皮で覆われたコアラの写真をたくさん見ることができる。
ある写真は、特に強力である。
コアラがまっすぐにこちらを見つめている。タイトルは、「木がない。私もいない。」である。
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2014年04月24日

Polestar E.C.2 Lesson 3

 どうすれば、食料に恵まれた人々は、十分に恵まれていない人々を助けることができるだろうか。
日本には、その問題に単純ではあるが、まさに有効な解決策を思いついた人々がいる。
1
 アメリカ合衆国によると、世界中の9億人以上の人々が、栄養不足であると考えられている。
一方、日本やアメリカを含む先進国の多くの人々は、食べすぎによる健康障害で苦しんでいる。
 「二人のテーブル」(TFT)として知られている日本のプロジェクトは、世界の豊かな地域とそうでない地域との間に存在するアンバランスを改善しようと努力している。
その名前は、先進国の人と発展途上国の人が、事実上同じテーブルで食事できるように提案するという意味である。
日本では、TFTによって健康的であると保証された食事を注文することができる。
日本で注文される1回の食事につき20円の寄付は、エチオピアや、ウガンダ、マラウイのような発展途上国に送られる。そこで、そのお金は健康的な学校給食の代金として支払われる。
このようにして、TFTは健康的な食事を、日本で奨励し、遠い国の児童に栄養価の高い食事を供給する。
2
 TFTプロジェクトは、2007年に6つの日本企業のカフェテリアで始まった。
プロジェクトの創始者は、20円あれば、発展途上国にある1つの学校の給食コストをカバーするには十分であると、算出した。
TFTの創設者である小暮真久氏は、この小さな寄付が、私たちと遠く離れた恵まれない人々とを繋ぐことができる。すなわち、「20円の寄付は、私たちが世界から信頼される市民であることを示す。」と、言う。
 TFTが提供する学校給食は、温かく栄養価が高い。
豆と野菜のソースを添えたコーンフラワーケーキのような食事が定期的に供給される。
このサービスが止まれば、子供たちは、バナナやトマトなど、生の食べ物を食べるしかないだろう。
 2008年の終りまでに、100以上の企業や、大学、病院が、TFTプロジェクトに加わった。
現在、TFTに承認されている飲食物は、カフェやコンビニ、そして自動販売機でも提供されている。
2011年9月現在、TFTは合計で1000万食以上を供給することができた。
その数は、急速に増え続けている。
3
 TFTは、子供たちに、温かく栄養価の高い食事を供給するばかりではない。
学校給食が彼らに供給されると、子供たちはもはや、学校に持っていく食事を準備する必要はない。
これにより、より多くの子供たちが、学校へ行きやすくなる。
定期的に授業に出席すると、多くの生徒は学習の喜びを認識し、もっと勉強したいと希望する。
その結果、中学校に進む生徒の割合は、着実に上がっている。
 TFTはまた、先進諸国の人々に、国際社会に関与する便利な方法を与えることにより、彼らの役に立っている。
多くの人々は、貧しい人々の状況を改善する手助けをしたいと思っているが、あまりに忙しくてそれができない。
TFTへの20円の寄付は、貢献のための最も簡単で最も効果的な方法の1つである。
 TFTプロジェクトに取り組んでいるシェフは、より健康的なメニューを作成しようと意欲的だ。
彼らは、アフリカの子供たちの暮らしを改善しているばかりでなく、日本人の健康も増進させているということを知って、とても満足している。
TFTプロジェクトに関わる、ある熱心なシェフは、「私の仕事は、アフリカの子供に微笑みをもたらす。」と、言う。
この目的意識は、プロジェクトに関わる人々にとって特別なものだ。
4
 「二人のテーブル」は、現在その活動の範囲を広げている。
ある最近のプログラムでは、大学生がTFTの理念を、できるだけ多くの学内カフェテリアに広めようと活動している。
彼らはまた、近所の店舗やレストランに、そのプロジェクトを紹介しようと、一生懸命活動している。
 2008年、支社がニューヨークに設立された。そして、それは1年後に活動を開始した。
「私たちはアメリカで働きたいと思っていた。なぜなら、食べすぎが広く問題となっている主要な先進国だから。」と、TFTの小暮真久氏は言う。
社会的企業分野で、すでに豊富な経験を積んでいる国で、働こうとする挑戦を歓迎する。と、彼は付け加える。
 「人は食べ物そのものである。」という、英語の格言がある。
実際、食べ物は体と心に栄養を与える。
TFTのスタッフは、児童が温かい昼食を食べると、将来の夢について語り始めることに気づいた。
先生になりたい児童もいれば、看護師や医者になりたい児童もいる。
その夢を実現することが、TFTの真の業績となるだろう。
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2014年04月25日

Polestar E.C.2 Lesson 4

 アメリカとロシアは、宇宙探査レースを支配してきた。
しかしながら、日本もまた大きく貢献している。
その良い例が、「はやぶさ」小惑星探査機である。
1
 2010年、6月13日、日本の小惑星探査機はやぶさは、地球に帰還した。
その発射から7年、多くの困難に直面したが、ついに、無事に帰還した。
はやぶさが奇跡的に帰還して初めて、航海中の様々な紆余曲折を人は知ることになる。
 はやぶさプロジェクト当初から、それに取り組んできた科学者たちは、問題を予期していた。
理由の1つが、その目標、小惑星イトカワである。
それはとても小さく、そしてとても遠かった。
もう1つの理由は、はやぶさの任務が、これまで課せられたことのない多くの仕事を含んでいたことである。
そのうちの主な任務は、小惑星の表面からサンプルを収集し、地球へ持ち帰ることだった。
成功の可能性はとても低く、NASAでさえ、そのような試みはしたことがなかった。
 しかしながら、プロジェクトのリーダーである、川口淳一郎氏は、日本は成功すると信じ、その危険性と多額の費用にも関わらず、はやぶさプロジェクトに予算を組むよう政府に要請した。
人が自分の目を通して可能であると思われることだけをするなら、進歩は決して見えてこないだろう、と、彼は主張した。
日本は、これまでなされたことのない試みをすることによって、宇宙探査で主要な役割を演じなければならない、と、川口は考えた。
 政府は厳しい経済状況に直面していたが、1996年、はやぶさプロジェクトに光明をもたらした。
6年後の、2003年、5月9日、はやぶさは、地球から3億キロメートル離れた小惑星イトカワへ向け、その歴史的な旅に出た。
2
 イトカワは重要だった。なぜなら、それは、我々の太陽系の起源に手掛かりを与えるかもしれないと科学者たちは考えていたからである。
それを構成している物質は、太陽系が形成された頃と同じぐらい残されていた。
科学者は、太陽と惑星がどのように生まれたかを説明する手助けになるかどうかを確認するために、そのサンプルを手に入れたかった。
 2005年11月までには、はやぶさはイトカワに着いていた。
次の段階は、小惑星に金属発射体を発射して、舞い上がったちりの一部を収集することだった。
しかし、問題が起きた、はやぶさがイトカワに接近したとき、偶然表面にぶつかり、それから数回バウンドしたのだ。
サンプルを収集する最初の試みは、失敗した。
川口は、2回目の試みのリスクを考えた。
はやぶさが厳しいダメージを受けると、地球に帰還するのは難しくなる、彼にはそれがわかっていた。
 数日間、問題について考慮し、川口は再びた試すことにした。
2回目の試みで、はやぶさは、その発射体をうまく発射し、若干の小片が収集できたと思われた。
興奮の波が、制御室に起こった。
はやぶさが成功したニュースは、すぐにインターネットを通して報告された。
3
 興奮と喜びは、長くは続かなかった。
プロジェクト・チームが、はやぶさから送られるデータを分析すると、サンプリング装置がきちんと働かなかったのではいかと思われ始めた。
探査機が、イトカワから予定通りサンプルを収集することに失敗した可能性が高まった。
それでもまだ、川口は望みを完全に失ったわけではなかった。
はやぶさが、イトカワの表面ではねたとき、小片がサンプラーに入った可能性が、まだ残されていた。
 2005年12月9日、探査機との交信が途絶えたとき、チームは新しい障害に直面した。
彼らは探査機との交信を回復しようと、あらゆる試みをしたが、はやぶさは3億キロメートル離れた宇宙で消えたかのようだった。
はやぶさを見つけられる可能性が少なくなって行くように思われるにつれ、絶望感が広がった。
 チームの気持ちを奮い立たせるため、川口はスタッフを自分の周りに集めて、自分たちのゴールを思い出させた。すなわち、はやぶさを地球に帰還させること、だった。
それから、奇跡のようなことが、起きた。
はやぶさとの交信が途絶えてから46日後の、2006年1月23日、チームは探査機から来るかすかな信号を拾った。
交信が回復した!
4
 翌月、はやぶさが地球への復路に付いたことが確認された。しかし、そのときエンジンに問題が生じていた。
探査機は、その力の大部分を失っていた。
川口は、エンジン復旧のために、任務を遅らせるべきかどうか決めなければならなかった。
このことは、探査機が地球にもう一度近づくまで、宇宙にさらに3年留まることを意味する。
しかし、はやぶさはそんなに長くもたないかもしれない。
結局、彼はほとんど残されていない、はやぶさの力を使って、遅れを避けることに決めた。
それは、正しい決断となった。
 2010年6月13日、ついに、はやぶさは帰還した。
探査機自体は大気中で燃え尽きたが、その貨物はオーストラリアのウーメラ砂漠に着陸した。
それは後に、イトカワから持ち帰った1500個もの小片を含むことがわかった。
任務は果たされた、そして、その注目に値する偉業のニュースは世界中を駆け巡った。
 はやぶさ偉業の人気が、日本政府に、厳しい経済状況にあっても、更なる宇宙探査に資金を提供する考えを起こさせた。
この結果、新たなプロジェクト、はやぶさ2号は、現在進行中である。
新しい探査機がそのプロジェクトの終了までに何を発見するのかは、誰にもわからない。
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2014年04月26日

Polestar E.C.2 Optional Lesson 1

1
 もし、5ドルしかなく、時間も2時間しかないとしたなら、どうやってお金を稼ぐだろうか。
これは、私が、スタンフォード大学の授業で、学生に出した課題である。
14のチームが、それぞれ5ドルの「種資金」が入った封筒を受け取ると、計画を立てるのに好きなだけ時間を使ってよいと言われた。
しかしながら、一度、その封筒を破って開けると、できるだけ多くのお金を稼ぐのに2時間しか使えなかった。
私は、彼らにその課題を仕上げるよう、水曜日の午後から日曜日の夕方まで時間を与えた。
それから、日曜日の夕方に、各チームは自分たちが行ったことを写したスライドを私に送り、月曜日の午後に、3分間で自分たちのプロジェクトを皆に見せる。
彼らは、機会を見極め、前提を疑い、彼らの限られた資金を活用し、創造的になることで、起業家になるよう励まされた。
2
 もしこの課題が与えられたら、あなたはどうするだろうか。
私がこの質問をすると、大抵のグループに、「ラスベガスへ行こう」とか「宝くじを買おう」と叫ぶ人がいる。
こう言うと大笑いされる。
このような人たちは、大金を稼ぐ小さな好機より、大きな危険をとることになるだろう。
次の最も一般的な提案は、5ドル使って最初の材料を買い、洗車台やレモネードスタンドを設けるというものだ。
これは、2時間で使ったお金より少し多目に稼ぎたい人には、よい選択だ。
しかし、ほとんどの学生は、最終的に、標準的な反応を遥かに超える方法を発見した。
彼らは、できるだけ多く稼ぐために、豊かな可能性を引き出しながら、伝統的前提を疑うという課題に真剣に挑んだ。
 彼らはこの課題にどう対処したのだろうか。
ここにヒントがある、最も多くお金を稼いだチームは、5ドルを全く使わなかった。  
彼らは、そのお金にこだわるのは、実際には、問題を型にはめ込んでしまうことになると気づいた。
彼らは、5ドルには必ずしも意味がないことを理解し、問題をもっと広く解釈し直すことにした。
すなわち、もし、無一文から始めるとするなら、どうすればお金を稼げるだろうかと。
彼らは、自分たちの観察力を研ぎ澄まし、才能を活かし、創造力を全開にして、自分たちの中にある問題がどんなものなのかを見極めた。
それは、自分が経験しているか、他人が経験していることに気づいた問題であり、以前見たことはあるけれど、決して解こうとは考えなかった問題である。
これらの問題は、厄介だが、必ずしも皆の心の中心にあるわけではなかった。
これらの問題を解明し、それを解こうと努力することで、優勝したチームは600ドル以上稼ぎ、5ドルの投資に対する平均収益は4000パーセントだった。
もし、チームの多くが全く資金を使わなかったことを考慮するなら、彼らの収益は無限だった。
3  
 それでは、彼らはどのようにしたのだろうか。 すべてのチームは、創造力豊かだった。
あるグループは、大学のある多くの街で見掛ける問題だと解釈した、つまり、土曜の夜、人気レストランの前にできるイライラする長い列である。
そのチームは、並んで待ちたくない人の手助けをすることにした。
彼らは組分けして、いくつかのレストランで予約を取った。 予約した時刻が近づくと、それぞれの予約を最高20ドルで、長く待たずに済むことを喜ぶ客に売った。  
 夕暮れになるにつれて、彼らは面白いことを観察した。
まず、彼らは、女子学生は、男子学生より予約を取るのがうまいということに気づいた、たぶん、客は、若い女の子が近寄って来た方が、心地よいからだろう。
彼らは、男子学生が街を走り回って、様々なレストランで予約を取り、その一方で、女子学生が並んでその場所を売るように、計画を調整した。
また、彼らは、これらの計画は、テーブルの準備が整ったことを、震動ポケットベルで客に知らせるレストランで、一番うまくいくとわかった。
実際、ポケットベルを交換することは、客に、まるでお金を払って、触れられる何かを受け取っているかのように感じさせた。
客は、自分のポケットベルとお金を渡して、新しいポケットベルを受け取る時に、さらに気持ちよくなった。
このことで予定外の儲けが生まれた、チームのメンバーは新たに手に入れたポケットベルの予約時間が近づくと、それを売ることができたのだ。
4  
 別なチームは更に簡単な方法を取った。
彼らは、学生自治会の前に、自転車のタイヤの空気圧を無料で測るスタンドを作った。
もしタイヤに空気が必要ならば、1ドルで入れた。
最初、彼らは、自分たちが仲間を利用していると思った、彼らは、近くのガソリンスタンドへ行き、簡単にタイヤの空気を入れてもらうことができたのだから。
しかし、最初に数人の自転車の学生に対応してみると、彼らは、以外に喜んでいることに気づいた。
たとえ自転車の学生たちが、近くでタイヤの空気を無料で入れることができたとしても、そしてそうすることは容易いことだとしても、彼らは、便利で価値あるサービスをしているとすぐに分かった。
実際、制限時間2時間の途中、チームは一定の料金を請求することをやめ、その代わりに寄付を求めた。
彼らの収入は急に増えた。
彼らは、客たちが一定の料金を求められた時よりも、無料サービスに対して謝礼をする時の方がと、ずっと多くの収入を得ることができた。
レストランの予約を取ったチームと同様に、このチームの場合も、途中で色々試してみることでうまくいった。
繰り返す過程で、客の反応に応じた微調整により、彼らは、自分たちの戦略をその場で最適化することができた。
5
 これらのプロジェクトの各々は、数百ドルの収益をもたらし、仲間のクラスメートたちは、十分感心した。
しかしながら、最も利益をあげたチームは、全く違ったレンズを通して、その資金を十分に活用できると考え、650ドルを稼いだ。
これらの学生は、自分たちが持っている最も貴重な資源は、5ドルでも2時間でもないと判断した。
代わりに、彼らの最も貴重な資源は、月曜日に3分間のプレゼンテーションを行うことだと悟った。
彼らは、それを、クラスの学生たちを雇用したいと思っている会社に売ろうと決めた。
そのチームは、会社のために、3分間の「コマーシャル」を作り、前週行ったことを披露する時間に、学生たちにそれを紹介した。
これは素晴らしかった。
彼らは、自分たちには、他人が気づきもしないような途方もなく貴重な財産があり、ただ発見されるのを待っているのだということを認識した。
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2014年04月27日

Polestar E.C.2 Lesson 5

 絵画、彫刻、建築など、単一の芸術に専念する芸術家もいる。
しかしながら、様々な分野ですばらしい作品を作る芸術家もいる。
これは、あるそのような芸術家の物語だ。
1
 日本の昔の提灯を思わせる、日本の伝統的な和紙の照明から漏れる暖かい光―これが、イサム・ノグチによって設計された、ランプのロングセラー、「アカリ」シリーズの効果である。
しかし、イサムはランプのデザイナーであるばかりではなかった。
彼の活動は、家具、インテリアデザイン、建築、庭園、そして噴水にまで及ぶ。
こういうわけで、彼は「地球を刻んだ芸術家」として知られるようになった。
 イサムは多作の芸術家だった。そして、彼のパブリックアートは多くの場所で見られる。ほんの少し例を挙げれば、ヨーロッパや、イスラエル、メキシコ、アメリカなどでである。
日本では、彼の61の作品が、国中のいろいろな場所で見られる。
例えば、箱根彫刻の森美術館には、彼の彫刻があり、入館者はそれに触れることさえできる。
 国境と時を越えて、イサム・ノグチの名前は、芸術デザインの世界で明るく輝いている。
彼を第2のミケランジェロと呼ぶ人さえいる。
文化的背景をアメリカと日本の両国に持ちながら、彼の芸術的才能は、いかに開花したのか。
浮き沈みに満ちた彼の人生を振り返ると、その答えが見つかる。
2
 イサム・ノグチは、1904年、ロス・アンゼルスで生まれた。日本の詩人で作家の野口米次郎と、アメリカの作家レオニー・ギルモアの息子(として)。
イサムは最初の2年をアメリカで過ごしたが、その後、日本に連れて来られ、そこで暮らした。
しかし、その時すでに、米次郎は日本の女性と結婚していたので、レオニーは幼いイサムと二人きりで暮らさねばならなかった。
彼女は、日本でやっていくため、一生懸命英語を教えた。
 幼い子供でありながら、イサムは芸術的な素質を示した。
彼の正確で詳細な絵は、幼稚園の先生たちを驚かせた。
その後、6歳のときに、彼は1つの粘土作品を作った、驚くほど迫真の彫刻「波」である。
それは、おそらく太平洋を渡った彼の航海の記憶だった。
 小学校で、イサムはひどくいじめられたので、横浜のインターナショナルスクールへ転校することになった。
しかしそこでも彼は、彼の混合した文化的背景に対する偏見に苦しむことになる。
この困難な時期に、彼の母は、彼に重要な役割を与えることによって彼を救うことにした。それは、彼らの新居を設計することである。
彼が9歳で描いた構想には、彼女が想像したよりも、さらに大きな能力が見られた。
彼女は、彼の並外れた才能を育てることが、彼女の義務であると悟った。
3
 イサムが14歳であった1918年に、母は、彼を一人でアメリカに帰国させた。
彼は学問的に優れていて、結局、クラスのトップで高校を卒業した。
彼はコロンビア大学の医学部に受け入れられたが、そこで彼は、医学の人生と芸術の人生との間で迷い始めた。
彼は、その時、日本の有名な細菌学者、野口英世に会っている。
野口は、イサムの芸術的才能を認めると、芸術に集中するよう彼に言った。
イサムはまだ医学学校に登録されていたが、その時、彼は芸術学校にも出席し始めた。
 彼は後年振り返って、自分らしさと芸術の領域との関連についてコメントした。
「アイデンティティの問題は、はっきりとは言えない。」と、彼は彼のような背景を持つ人々について語った。
「それでも、私がどんなアイデンティティにも、すべて気づくことができたのは、芸術においてだけだったと思う。」
 1927年、イサムは奨学金を得ると、パリへ行った。
彼はモンパルナスのアトリエに落ち付き、芸術創作に身を投じた。
最終的にニューヨークに戻ると、彼は芸術にエネルギーを注ぎ続けた。
徐々に、イサムは彼の作品でますます大きな評価を得るようになった。
4
 イサムの人生は、必ずしも順風満帆ではなかった。
彼は、しばしば両国の間で悩んだ。
第二次世界大戦中の1942年に、彼は、捕虜収容所に捕らえられている、日系アメリカ人に対するアメリカ政府の対応について、反対意見を述べている。
彼は、抗議し、自ら進んでそのようなキャンプに入った。
芸術家としてもまた、イサムは多難な時代を生きた。
彼は、原子爆弾の犠牲者のための広島平和記念資料館や、ケネディ大統領の墓といった重要なプロジェクトにデザインで貢献したいと望んだ。
しかし、どちらのプロジェクトにも、彼の考えは、採用されなかった。
 幼い頃から、イサムは、彼が国民となった国のどちらからも、完全には受け入れられないことに混乱した。
しかし、後年、イサムは、両国に対する広範囲な認識を楽しむようになった。
1987年、彼は、アメリカ政府が芸術家に与え得る最も高い勲章、国民芸術勲章を授与された。
翌年、死の数ヶ月前に、イサムは、日本で同じような名誉、瑞宝章(ずいほうしょう)を受章した。
これらの勲章は、今もなお世界中の数百万の人々を楽しませ続ける遺産を残した、芸術的才能に対する、ふさわしい贈り物であり、そして、もう一度、真の芸術は常に国境を越えるということを示した。
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posted by sakai shinji at 11:14 | Comment(0) | Polestar E.C.2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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