2015年04月23日

Crown E.C.3 Lesson 1

1
 ドナルド・キーンは、1940年にタイムズ・スクエアの書店で一冊の 『源氏物語』を見つけると、すぐに日本に心を奪われた。
 「私は読むことを止められず、ときには何度も何度も後戻りし、細かなところまで味わった。
私は、『源氏物語』の世界と自分白身の世界を比較した。
その本の中では、怒りは決して暴力に変わることはなく、戦争もなかった。
主人公の源氏は、ヨーロッパの叙事詩の中の主人公たちとは異なり、10人の男たちが持ち上げられないような岩を持ち上げることができる、肉体的に頑強な男として描かれてはいなかった。
彼は、深い悲しみを知っていた、それは、彼が政権を掌握するのに失敗したからではなくて、彼が人間であって、この世の生は必然的に悲しいからであった。
そのときまで、私は、日本を何よりも軍事国家だと考えていた。」
 海軍語学学校で日本語を学んだ後、キーンは第二次世界大戦中、太平洋地域で情報将校として従軍した。
彼の任務の1つは、文書を翻訳することだった。
それらの中に、日本の兵士たちによって書かれた手帳があった。
 「それらの小さな手帳は、日記であると、私は教えられた。
私がそれまで翻訳した印刷物とは異なり、その日記はときに極めて感動的で、最後の日々を過ごす日本人兵士たちの苦悩を記録していた。」
 「時折、日本人兵士の日記の最後のページには、英語でメッセージが記されていて、日記を見つけた米国人に、 戦争が終わったら、それを自分の家族に届けてほしいと頼んでいた。
そうしてはいけなかったのだが、私はその日記をとっておいた、兵士の家族にそれらを返そうと考えていたからだ。
しかしながら、私の机は捜索され、日記は没収されてしまった。
これはとても残念なことだった。
したがって、私が初めて本当に知った日本人は、これらの日記を書いた人たちだった、私が彼らに出会うときまでには、彼らは皆亡くなっていたのだが。」
2
 キーンは、戦争が終わると、アメリカに戻ったが、日本に魅了されたままだった。
1953年、彼は再び日本にやってきた、今度は京都大学で研究するためだった。
 「ある夜、 私は日本人の知人と一緒に先斗町を歩いた。
それはあまりに美しく、自分の眼が信じられないほどだった。
この狭い通りの両側にあるすべての建物は、日本様式だった。
それぞれの戸口には提灯があり、その通りを、金色の糸が暗がりできらきら光る着物を着た若い芸者が歩いていた。
先斗町は、日本文化のもうひとつの側面であるように思われた、それは女性的な側面で、すなわち関ヶ原とは反対のものだ。
その夜、それ(先斗町)は魔法のようだった、そして、それが近年どれほど変わってしまったかを見るのは悲しい。
 「龍安寺も近くにあった。
海軍語学学校にいたとき、私は、この寺の有名な砂と石の庭のことを聞き、それを見たいと思っていた。
ときどき観光客が来たが、どういうわけか石と砂の美しさは、観光客に予期される感嘆の声を静めた。
私は、月明かりの下で、その庭を見に行ったある夜のことを、とりわけよく覚えている。
私が、石と砂をじっと見ていたとき、多分深刻なことを考えていたわけではなかったが、そばで物音が聞こえた。
目を向けると、寺の住職の奥さんが、私のそばに1杯のお茶を置いたのだとわかった。
私たちは、しばらく話をした。」
 「京都についての私の思い出で、もっとも強いものは、実のところ日本すべてについて言えることだが、私が出会った人々、それは、友人になった人々ばかりではなくて、龍安寺の住職の奧さんのように、ほとんど知らないのに親切にしてくれた人々もである。」
 京都に滞在中、キーンは彼の『日本文学選集』をまとめた。
これは、世界中における日本研究の発展に大きな影響力をもつこととなる重要な著作である。
3
 2011年1月、コロンビア大学を退職した後、キーンは日本を自分の住まいとすることに決めた。
翌年、89歳で、彼は帰化した国民となった。
 「もし東日本大震災がなかったならば、私の日本国籍取得は新聞で数行の記事にしかならなかっただろう。
しかし、あの大災害が、私の個人的な願いに特別な意味を与えた。
私は多くの手紙を受け取った。
手紙をくれた人々は、私の日本に永住するという決断に励まされ、感銘を受けた。」
 キーンは、日本はこの大災害から復興し、以前にもましていっそうすばらしぃ国になだろうと信じている、戦後、日本がそうしたのと、まさに同じように。
彼は、1945 年12月におよそ10日間東京を訪れた。
残っていたのは、倉庫と煙突だけだった。
日本が、自らを再建するのに50年以上かかるだろうと言われた。
 1953年、キーンは日本に戻ってきた。
複興は、誰が可能だと考えていたのよりも速かった、日本は、まったく違う国になっていたのだ。
 1955年、キーンは東北を旅して、芭蕉の旅を辿った。
彼は、仙台が戦争でほぼ壊滅的に破壊されたが、再建されたことを知った。
キーンは、中尊寺も含めて、芭蕉が訪れた多くの場所を見つけることができた。
 2011年、キーンは震災の6か月後にその寺を再び訪れ、震災で家に損害を被った人々を含む聴衆に対して講演をした。
講演後、キーンがそれまでに会ったことのない年配の女性が近づいてきた。
 「彼女は私と提手をし、私は胸が熱くなった。
私は、私たちの握手が、私の生涯を通して日本とのきずなの象徴だと感じた。
私は、日本への深い感謝を感じた。
私は、このような人々と共に生き、このような人々と死を共有したい、私は、日本を愛し日本を信じているからだ。
私は、日本と共にありたいのだ。」

それは、英語ではどのように響くのか。
 ドナルド・キーンのような人々のおかげで、日本文学の多くは、現在英訳で楽しむことができる。
以下の日本文学の主な作品の一節の英訳を読んでみてほしい。
それらは、英語ではどのように聞こえるだろうか。
これらの一節を、それらの元となっている本と一致させられるかどうか見てほしい。
(1)春は、夜明け、ゆっくりと色あせてゆく山の縁が赤みを帯びる頃、空には微かに茜色から紫がかった一筋の雲が浮いている。
夏は、夜、月明かりの夜はもちろん、月のない暗闇でも、蛍が多く飛び交っているのは美しい。
また、たった一匹か二匹の蛍が、微かに光って飛んでいるのを見るのも楽しい。
夏の夜に降る雨も美しい。
秋は、夕暮れ、燃える太陽が山の縁にとても近づき、カラスが3羽4羽、2羽3羽と、寝床へ急いで飛んでいくのも感動的な光景だ。
それにもまして魅惑的なのは、遠くの空に、とても小さく見える、雁が列をなして飛んでいる光景だ。
そして、ああ何とも言えない。太陽が沈み、広がる暗闇の中に、風や秋の虫の音を聞くのは。
(2)月日は永遠の旅人である。
行ったり来たりする年もまた旅人である。
船に人生を浮かべ、あるいは馬を引いて歳をとっていく人は、永遠に旅をし、旅が彼らを連れて行くところが彼らの住む場所である。
(3)私は猫である。
まだ、名前はない。
どこで生まれたか、知らない。
私が覚えているのは、じめじめした薄暗い所でニャーと鳴いていたということだけだ。そのとき初めて、人間を見た。
あとで聞くと、それは一番獰悪な種族の一人で、書生といい、食事と部屋の見返りに、家の中の小さな雑用をする学生の1人であった。
時折、この種族は、私たちを捕つかまえて、煮て食うらしい。
しかし、その時は、そのような生き物に対する知識も全くなかったから、特に恐しいとも感じなかった。



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2015年04月25日

Crown E.C.3 Lesson 2

1
 90%の人々のためにデザインするということは、その地域の素材で、容易く作ることができるものを作ることを意味する。
添付されている写真は、このようなデザインのいくつかを示している。
 写真のデジタル・ドラムは、ふつうの道具を使って、ウガンダの自動車修理工場で組み立てられた。
それは、古い石油用のドラム缶でできているが、それらはしばしば単に捨てられてしまう。
それは、2台のコンピューターを備えていて、生徒たちに大人気だ。
 タンザニアでは、ほとんどの人が、電気のない生活をしているが、国民の3分の1は携帯電話を使っている。
この自転車を使った発電機は、携帯電話を充電するのに十分なパワーがある。
それは、自転車についているヘッドライトを点灯させるものとまさに同じだ。
これは、人々に本当の助力を提供する、単純で容易く作れるデザインの一例だ。
 貧しい人々にとって、大きな問題の1つは、冷蔵庫のない暑さの中で、食べ物を新鮮に保つことだ。
ナイジェリア生まれのこのポット・イン・ポット・クーラーは、多くのアフリカ人に対してその問題を解決する。
2つのポットの間に湿った砂を入れると、水分が蒸発し、小さいポットに入っている食べ物を冷やす。
 マラリアは、世界中の至るところで何百万もの人々を死に陥れる病気だ。
アフリカで、それはほかのどの病気よりも多くの子どもの命を奪う。
 マラリアを排除する単純でとても効果的なデザインは、殺虫剤で処理されたこの蚊帳だ。
それは、アフリカや、南米、アジアの至るところで広く使われている。
 世界中の貧しい人々が直面している最大の問題のひとつは、安全な飲料水を見つけることだ。
ガーナや、ナイジェリア、パキスタン、ウガンダで使われているライフストローは、どんな水も飲料水に変える。
それは多くの病気に効果的だ。
2
 90%の人々の暮らしを少し楽にし、もっと快適にするこれらのデザインに加え、実際に人々が貧困から脱するのを手助けするデザインがある。
貧困から抜け出すのに必要なこととはなんだろうか。
もっとも大切なことは、富を蓄積する方法を見つけなければならないということだ。
とても貧しいときに、どうすれば富を蓄積できるだろうか。
一つの方法は生産的になることだ。
 デザイナーたちは、農家の人たちが灌漑を利用し、収穫高を増すことで生産性が高まるよう手助けしようとしている。
伝統的な灌漑システムは、田畑全体を水で溢れさせ、生産性を高める。
しかし、それらは、世界の90%の人々が利用するのには適さない。
それらは、建築費があまりに高すぎるし、非常に多くの水を使うからだ。
貧しい農民たちは、伝統的な灌漑システムを手にするだけの十分なお金が全くない。
それどころか、十分な水がないのだ。
水は、開発途上世界では、不足している資源だ。
 アフリカとインドで、貧しい農民たちを助けている一つの考えは、点滴灌漑であるが、それは、小さなパイプを使って個々の植物に水をもたらす。
大規模な点滴灌漑は、イスラエルやヨルダンのような国々でうまく利用されている。
伝統的な灌漑システムよりもずっと安価だが、それでも1日2ドルで生活しようとする27億の人々にとっては、かなりのコスト高だ。
彼らには、小規模な灌漑システムが必要だ。
 写真の点滴灌漑システムは、小区画の土地用にデザインされ、3ドルしかかからない。
この3ドルでできる灌漑システムは、インドの多くの地域で農民たちに利用されている。
あるインド人の農民は、今や乾季には、以前よりも約7倍の稼ぎがあると言う。
点満灌漑は、人々が生産性と収入を高めることによって、貧困から抜け出す手助けをしている。
3
 富を蓄積する別の方法は、家を持つことだが、それは市場で売ることができるし、銀行からお金を借りるのに使うことができる。
1日2ドルで暮らす農村部の人々のほとんどが、実際に自分自身の家を所有していると知ったら驚くかもしれない。
しかし、これらの「家」は、たいていは土の床に棒と泥で作られた質素な住まいだ。
それらには市場価値はなく、だれも買おうとはしない。
 もし棒と泥の家を丈夫にすることができれば、それらはもっと価値が上がるだろう。
一つの考えは土嚢で家を作ることで、それは、棒や泥よりも長くもつし、れんがやセメントブロックよりもはるかに安く頑丈だ。
もう一つのかわりとなるものは、エコファブリックで、それは牛糞と泥から作られ、通常のれんがよりも軽くて頑丈である。
 それでは、「よいデザインとは何か?」という質問に、どう答えればいいだろうか。
一方では、デザインは、世界の人口の90%を占める裕福でない人々の真の要求を満たさなければならない。
デザイナーたちは、90%の人々の真の要求を理解しようとするのであれば、彼らがデザインしようとする製品を使う人々の生活を理解しなければならない。
よいデザインをするには、思いやりや共感が必要だ、つまり、他者の立場に立って考える能力だ。
よいデザインへの一つのかぎは、シンプルな考えと共感である。
 もう一方で、シンプルな考えと共感それだけでは、デザインが実際に90%の人々に受け入れられるという保証は十分でない。
その90%の人々には、別の判断基準がある。
彼らはそのデザインのシンプルさに感謝し、共感が嬉しいかもしれないが、デザインそのもののこととなると、たった一つのことが、最後には本当に重要だ、つまり、彼らはそれを持てる金銭的余裕があるか、である。
ある成功したデザイナーが言うように、「l日に2ドルも稼げない世界の27億の人々にとっては、値ごろ感が重要なのだ。」

誰のためのものでもないデザイン
 「誰のためのデザインか?」が、普段使う発明を特徴づける。
それらは、市場に出される高価なデザイナー・アイテムから、10パーセントの豪華なものまでと様々だ。
発明には、同時に、もう一つの区分がある。
これらの発明は、とてもばからしいので、世界にそれを欲しいという人が存在するとは、思い難い。
それらは、「誰のためのものでもないデザイン」と呼べるかもしれない。
動物の耳カバー
 あなたは、長く、へなへなした耳の犬を飼っているだろうか?
そして、それに餌をあげるとき、その耳にいつも餌がかかっているだろうか?
もしそうならば、あなたには、動物の耳カバーが必要だ。
ジェットエンジン付きサーフボード
 あなたが海に出ていると、サメが追いかけて来たとしよう。
ふつうのボードでは、サメの餌食になるだろうが、ジェットエンジン付きサーフボードなら、容易く逃げられる。
それでも、何かの理由で、ジェットエンジン付きサーフボードを実際に製造しようとした人はいなかった。
つるのない眼鏡を磁気によって人に装着するためのシステム 
 「つる」とは、眼鏡を顔に装着するための、耳の後にまわる小さい腕である。
つるは、装着者を不快にさせることがある。
このシステムでは、頭の両側に粘着磁石を貼る必要がある。
不快な眼鏡の簡単な解決法は、眼鏡を調節することである。
発明者は、実際には存在しない問題の解決法を発明するのに数年を費やした。
ワサビ火災報知器
 日本の科学者は、世界で最も変わった火災報知器を発明した。
うるさい警告音を発する代わりに、この火災報知器は、鼻を刺激するワサビの粉を発射する。
一体誰が、この発明を必要とするだろうか?
そうそう、高度の聴覚障害者、純粋に普通の火災報知器音がまったく聞こえない人はどうだろうか?
結局のところ、「ばからしい」発明の中にも、そうとは言い切れないものもあるのではないか。

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2015年04月26日

Crown E.C.3 Lesson 3

1
いつ医者になろうと決めましたか。
 子どものときに、おなかが痛かったり、熱があるときはいつも、母は、私を小児科に連れていってくれましたが、その人はたまたま、親戚のひとりでした。
どういうわけか私は、彼の医学書や聴診器に魅せられました。
けれども、私が将来の仕事として医者になることを最初に考えたのは、高校の時でした。

医師になることは容易ではないと思います。
あなたの場合はどうでしたか。
 ええ、私も例外ではなかったと言わねばなりません。
高校では、なんの部活もしておらず、さらに入試に備えて予備校に通っていました。
けれども、私は3年連続落ちて、やっと入学できたときには、すでに21歳になっていました。
いま考えてみると、試験に落ちたことは、結局は私にとって悪いことではありませんでした。
そのことが、私に医師になるという決意を固める機会を与えてくれたのです。

医学部で研修を受けたあと、あなたは医師になられました。
率業後のキャリアはどうでしたか。
 友人の多くは、大学病院の医療スタッフとして働き始めましたが、私は違うキャリアを選びました。
私は、患者との触れ合いがより多く持てるであろう一般病院で働きたかったのです。
そうすれば、外科医としての技術を磨けるだろうと考えました。
それで、一般病院での職を探しを始め、何回か断られたあと、やっと職を見つけることができました。

心臓手術後にお父様を亡くされたと伺いました。
そのことは、あなたに外科医としてなんらかの影響を与えましたか。
 はい、もちろんです。
父は心臓病を患っており、2度の手術を受けていました。
私が31歳のとき、父の容態は非常に悪化したので、人工弁を交換してもらわねばなりませんでした。
私は最初から最後まで手術に立ち会いましたが、手術中トラブルが次々と続きました。
1週間後、父は亡くなりました。
66歳でした。

2
お父様を亡くされることは、きっと大きな打撃だったことでしょう。
 はい、衝撃的でした。
私が執刀したわけではないながら、父の死に多少の責任を感じずにはいられませんでした。
同時に、外科医として何をすべきでないかを私に見せるために、父は命を犠牲にしたのだと感じました。
私の助けを必要とする多くの患者さんの命を救えるように、私は自分にできるすべてのことをして、熟達した外科医になろうと決意しました。
病院での一日の仕事が終わると、私は一晩中縫合の練習をしました。
名医について聞きつけるといつも、私は手術を見せてもらおうと彼らに会いに行きました。
私は完全に納得するまで、あらゆる質間をしました。
これらの日々以降ずっと、「一途一心」に、外科医として技術の向上に絶えず努めて来ました。

つまり、お父様の死から多くを学んだということですね。
 はい、本当に。
ご存知のように、ほんの些細なミスが患者さんを危機にさらすことがあります。
このことがおそらく、父から学んだ最も重要な教訓のひとつです。
私は、出会う患者さん一人ひとりの命に責任があるとわかっていますので、彼らの命を救うためできうる最大限の努力をしています。
「決して近道をしようとするな。自分の使命を果たせ。」 と、自分自身に言い聞かせています。
「妥協」という言葉は、私の辞書にはありません。

あなたのことを 「神の手を持つ外科医」 と呼ぶ人もいます。
それについては、どう思われますか。
 そうですね、その比喩は私には当てはまらないと思います。
本当に必要なのは「神の手」ではなくて、手術前の周到な計画と物事を計算し見越す能力です。
私はこれまで6,000以上の手術を執刀して来ました、そしてこの経験が重大な局面でどういう方策をとるべきかを見越す助けになっています。
手術では、起こるかもしれないどんな状況にも迅速かつ正確に対応できるよう、五感をフルに活用することが重要です。

3
あなたは毎日重篤(じゅうとく)な心臓の患者さんと面談し、自分の時間のほとんどを病院で過ごされています。
患者さんとの関係作りで心がけていることはありますか。
 患者さんとよい関係を築き、そうすることで彼らの信頼を得ることは、医者にとってとても重要です。
個人的には、患者さんの心音を聴くとき、聴診器を自分の手で温めてから、彼らの胸に当てるよう努めています。
そして次に、彼らに違いがわかってもらえるように、私自身の心音を聴いてもらいます。
私は、医師である私と患者さんの距離を縮めるために、これを行っています。
患者さんは手術で命を失うかもしれないとわかっていて、医師の元に来ることを理解しなければならないし、だからこそ、そのような困難な決断をした人たちに尊敬の念を持つ必要があります。

出るくいは打たれると言われます。
世界でトップの心臓外科医のひとりとして、打たれることはありますか。
 そうですね、あなたが言われた諺は、一面では真理でしょう。
出るくいが打たれるときもあるかもしれませんが、それはほんの少ししか出ていないときだけです。
そのくいが、ほかのくいより遥かに高く出ていれば、決して打たれることはないでしょう。
そうやって、若い意欲的な外科医を鼓舞できることを願っています。

どなたかライバルはいらっしゃいますか。
ブラック・ジャックとか。
 私は、大鐘稔彦作の漫画の主人公、当麻鉄彦の名をあげたいです。
当麻はどういうわけか私に、若く意欲的な外科医だった、かつての自分を思い起こさせます。
彼は、彼ができ得る最高の手術を行い、患者とその家族を幸せにするため最善を尽くそうとします。
ライバルというよりはむしろ、おそらく私がなりたいと望む外科医の理想的イメージです。

患者が常に最優先だ
 天野医師には、外科医としての特別な技術がある。
しかし、医師として成功する他の方法もある。
 外科医としての仕事を続けたかったもう一人の医師がここにいる。
学生の頃、彼はラグビーをしていて、12回骨折した。そして、そのことが彼に外科医になる動機を与えた。
1987年に医学部を卒業すると、彼は研修医になった。
「研修医の訓練は、まるで地獄のようでした。通常は、ほんの10分しかかからない簡単な手術をするのに、私は1時間以上かかりました。私には、外科医になる技術がまったく足りなかったのです。」と、彼は思い返す。
かつて彼が手術の助手であったとき、同僚の1人が彼を嘲笑して、「君は、助手ではなくて、抵抗者だ。」と言った。
しかし、この臨床経験が、最高の医師でさえ治療することのできない多くの病気や怪我があることを彼に教えた。
彼は、基礎医学研究が、現代医療が適当な処置を施すことができない患者を助けるために必要であると理解した。
1993年、彼は渡米した。
彼は患者への治療を辞め、研究に集中した。
 ほぼ20年後の、2012年、この医師は、誘導多能性幹(iPS)細胞の作製によって、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。そして、その細胞にはどんな体組織にもなれる可能性がある。
彼の名前は、山中伸弥、京都大学教授である。
山中は言う、「医師として、私はこれまでたった1人の命さえ救うことができませんでしたから、大きな責任を感じます。私は、我々の進歩を医学のために活用したいです。」と。
 しかし、iPS細胞の開発が、様々な病気に対して、すぐに万能薬を提供できるというわけではない。更なる研究のために、5年あるいは10年を要するかもしれない。
しかし、山中は言う、「私は、患者に望みを捨てないで欲しい。」と。
天野医師と山中医師は、異なる道を歩んだが、彼らには同じモットーがある。
「患者が常に最優先だ」

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2015年04月28日

Crown E.C.3 Lesson 4

1
 アルベルト・アインシュタインや徳川家康、坂本龍馬が最近、丸の内で目撃されたことを知っていただろうか。
まあ、そんなようなものだ。
それらは、「ベンチアート・イン・丸の内2012」という、有楽町と大手町の間のベンチに有名な人々の等身大の像が置かれた展覧会の一部だった。
「私たちは人生の一部として、芸術作品を楽しむべきだ」と、そのプロジェクトの責任者は言った。
 あなたは、おそらく、絵画や彫刻、陶芸といった芸術作品を美術館で見ることに慣れているだろう。
しかし、丸の内の展覧会の目的は、芸術作品を美術館から持ち出し、私たちの日常生活に持ち込むことだった。
 丸の内の展覧会は、芸術作品と日常生活との境界線を「溶かす」芸術作品の例で、私たちを芸術家の作品に直面させ、新しい考え方の扉を開く。
 ベンチに座っているアインシュタインの彫刻は、美術館の彫刻よりも、もっと人間的で親しみやすい。
もしあなたが通りを歩いていてこのアインシュタインを見たら、どうするだろうか。
もしあなたがほかの多くの歩行者たちのようなら、彼の隣に座るかもしれない。
彼の肩に手を回すかもしれないし、誰かにあなたたちの写真を撮ってくれと頼むかもしれない。
ひょっとすると、アインシュタインがどのように世界を変え、あなたがこれからどのように世界を変えるのだろうかと考えるかもしれない。
あるいは、アインシュタインと友だちだったら、どんな感じだっただろうと思うかもしれない。
おそらく、アインシュタインの隣に座りながら、あなたは新鮮な目で見慣れた環境を見て、アインシュタインがその環境をどう思っただろうかと思いを巡らせるだろう。
そしてあっという間に、あなたは芸術作品と個人的に関わっている。
これが、 芸術家が求めていることだ。
つまり、あなたの関心を引きつけ行動を変えるようなやり方で、芸術作品をあなたの生活の中に思いがけず持ち込むことだ。
2
 ある晴れた午後、あなたは携帯電話でメールをしながらぶらぶら歩いているかもしれない。
そして、出くわすかもしれない、ホームレスの北極熊に?
 あなたは立ち止まり、見る。
あなたはもう一度、見る。
あれは本当にホームレスの北極熊なのだろうか。
ちょっと前、あなたは自分自身の考えの世界に没頭していた。
次の瞬間、あなたは全神経をまさに目の前にいるものに集中させて、とても鋭敏になる。
あなたは考えるかもしれない、「通りのここに座って、北極熊は何をしているのか。なぜ彼はホームレスの人のように見えるのか。彼はホームレスの人たちをからかっているのか。私は彼にお金をあげた方がいいのか。あれらの看板は一体何なのか。私は何をすればいいのか。」
その芸術家は、あなたをいつもの日課から抜け出させるのに成功した、つまり、彼はあなたをより深い見地で、世界と触れ合う気にさせた。
 そのホームレスの北極熊はアメリカ人芸術家、マーク・ジェンキンズの作品だ。
彼は動物や人間の本物そっくりな像を作り、しばしば許可を得ることなく、デパートの前の歩道でひざまずいているこの男性のように、それらを公共の場に置く。
インタビュアーに、「どうしてこのような芸術作品を作るのか」よ尋ねられて、ジェンキンズは言った、「私は、人々に、周りのものに疑問を持たせるのが好きなのだ、何が現実で、何が現実でないかと。最近人々は、携帯電話にとても夢中になっている。それで、私は彼らにただ顔をあげてもらいたかった。」
 環境活動家とともに活動しながら、ジェンキンズは地球温暖化に関心を向けさせるために、ホームレスの北極熊を作った。
それはまた、彼らの生息地が消滅しているので、本物の北極熊の問題にも、私たちの関心を向けさせる。
ジェンキンズは言った、彼は人々に「彼らがホームレスの人たちに共感を抱くように、北極熊にも共感を抱いてもらいたい。私たちはそれらを2つの関連した問題と見なしている。」
3
 芸術作品は私たちを微笑ませ、同時にに考えさせる。
それは、ユーモラスにも深刻にもなれる。
このページの下にある、階段に座っているとても小さな人たちの写真を見てほしい。
これらの像は、ブラジルの芸術家ネレ・アゼベドによって作られたのだが、氷でできていて、ベルリンの公共の広場に置かれ、そこで、ほとんどすぐに溶けけ始めた。
その芸術家の「溶けゆく人々」は、私たちにどんなメッセージを送ろうとしているとあなたは思うだろうか。
 あなたはこれらの小さな像は、まさにジェンキンズの作品のように、地球温暖化の危険に対する警告であると思うかもしれない。
そして確かにこの解釈は正しいだろう。
それらは、グリーンランドや南極の氷冠が溶けていることに人々の関心を向けさせた。
 しかし、アゼベドは「溶けゆく人々」のもともとの意図は、地球温暖化とはほとんど関係がなかったと言う。
彼女は環境保護活動家かと尋ねられると、違うといい、そして、「溶けゆく人々」は最初、有名な記念建造物に対する批評だったと付け加えた。
つまり、彼女は英雄たちを特徴のない像に置きかえ、永久的な石を溶けゆく氷に置きかえたのだ。
彼女は思い起こす、「そのプロジェクトは単体で始まりました、のちに、たくさんの小さな氷の彫刻が、いくつかの都市の公共の場に置かれました。その小さな像は、溶けてなくなりますが、それらの記憶は写真や見た人みんなの心に保存されます。まさに巨大な記念像に残されている偉大な英雄たちのように。」
彼女は、もっとも偉大な記念像でさえも、「溶けゆく人々」のように、最後には砕けて塵となり、消えてなくなるだろうと付け加えたかもしれない。
 2005年以来、アゼベドは世界の様々な国々に、「溶けゆく人々」を設置してきている。
そして環境保護論者たちはいまや、彼女の作品を気候変動の芸術作品として採用している。
アゼベドは、自分の作品に対する新しい解釈を受け入れている。
彼女は言う、「芸術作品の解釈は自由です。それがこの惑星における私たちの存在を脅かす重要な問題についてもまた言及できることが、私はうれしい。」

4
 西野達は、彼もまた公共の記念物と私たちとの関わりに関心を抱いている日本人の芸術家であるが、まったく異なる方法でその問題に取り組んでいる。
シンガポール・ ビエンナーレ2011の重要なプロジェクトのひとつとして、彼はシンガポールの国民的な記念像であるマーライオンの環境を変えるという考えを思いついた。
マーライオンは、ライオンの頭と魚の体を持つ想像上の生き物だ。
 西野は、マーライオンを移動させることなく、豪華なホテルの部屋に入れることを計画した。
西野がしたことはかなり驚くものだった、あるいは人によっては衝撃的でさえあった。
彼は、高さ8.6メートルの想像上の生き物の周りに豪準なホテルの部屋を建てたのだ。
 マーライオン・ホテルは公共の場をプライベートな空間に変えている。
有名な記念像がまさにそこに、ホテルのあなたの部屋の中にあるのだ。
2011年3 月13日から5月15日まで、マーライオン・ホテルは、誰でも、ホテルの部屋の真ん中の床から現れた半分がライオンで半分が魚の像のこの奇炒な光景を写真に撮ることができるよう、一般に公開された。
夕方にはそのホテルは宿泊用に営業した。
 あなたは有名な記念像といっしょに部屋で眠ることについてどう思うだろうか。
たとえあなたの答えがどうであっても、おそらく今までそのような質問をされたことはないだろう。
あなたがマーライオン・ホテルへの階段を上がっているのを想像してみなさい。
あなたはホテルの部屋に入ると、突然その像と顔を合わせるのだ。
これはあなたにどう感じさせるだろうか。
そしてホテルの部屋の窓の外をじっと見れば、マーライオンの視点から様々なものを見るという絶好の機会を得る。
あなたの世界のとらえ方が変わった。
 この企画を通して、西野は人々に、当たり前だと思えるかもしれないものや、ごくふつうに思えるものに、新しい物の見方を与えることに成功した。
これはおそらく、芸術作品が私たちにすることができるいちばん重要なことのひとつだ。
好むと好まざるとにかかわらず、それは私たちの日常生活の一部で、私たちにメッセージを送っている、「周りの世界を見なさい。気づきなさい!関わりなさい!」
脱出、突入
 マーク・ジェンキンズのような芸術家は、芸術は、公的な場所、すなわち、通りや地下鉄の駅、丸の内の公園のベンチにおいてさえ、見られるべきであると考えている。
彼らは、芸術を自由にし、それを美術館から「脱出」させたいと思っている。
 ほぼ100年前、別の芸術家グループが、同じような見識をもっていた。
彼らは、美術館には、芸術として見るに値する多くのものが入りきれないと感じた。
これらの芸術家は日常の物を、枠の中に、あるいは、台の上に置き、それらが「芸術」作品であると主張した。
彼らは疑問に感じていた。「誰に、何が芸術であると言う資格があるというのか。芸術家だろうか、それとも美術館の館長だろうか?」
彼らは、芸術が美術館「入り」するのを助けようとしていた。
 フランスの超現実主義者、マルセル・デュシャンは、これらの芸術家の最も有名な1人だった。
彼の2つの作品の写真が、ここにある。これは、彼が金物屋で購入し、台の上に置き、「泉」と題した帽子掛けと普通の男性用小便器である。
彼はまた、この「彫刻」を提示した。自転車の車輪である。
芸術家が、芸術であると言えば、それは芸術だろうか?
デュシャンは多少ふざけながらも、重要なポイントをついていた。
近年では、500人の芸術評論家が、「泉」を現代芸術で最も影響力のある作品と呼んでいる。
1917年に、なんでもない物にタイトルを付けて威厳を与え、それを台の上に置くという発想は、何が芸術であり、何が芸術でないかという社会通念への衝撃的な挑戦だった。
評論家は、ある物が、芸術作品であるためには、少なくとも、芸術家の手が加えられていなければならいと考えていた。
 しかし、今日、多くの芸術評論家は、単に物を再配置し、それにタイトルを付けることが、その物に手を加えたことになると主張する。なぜなら、それが機能または地位に対する我々の認識を変えるからである。
 ミケランジェロは石のブロックを拾って、それに手を加え、「デイビッド」と呼んだ。
デュシャンは便器を取り上げ、それに手を加え、「泉」と呼んだ。
それらはどちらも、「芸術」であろうか?
決めるのはあなただ。

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2015年04月29日

Crown.E.C.3 Lesson 5

1
 子どもの頃、瀬谷はいつも「未知なるもの」に引きつけられた。
彼女の心の中では、外国はとても遠く思え、そしてもちろん彼女にとって「来知なるもの」に思えた。
彼女は地図帳を開きアフリカを見つけると、とても興奮した。
 瀬谷は高校生のときに、ルワンダ人の難民キャンプで、死にかけている母親とその小さな子どもの写真を見て、衝撃を受けた。
彼女は自分に問いかけた、「私はここ日本で何をしているのだろう、スナック菓子を食べながら、この写真を見て。」
彼女は思った、「私たちの間にあるのはカメラのレンズだけだけれど、日本での私の生活と彼らの生活の間には決定的な違いがある。」
彼女は、自分が望むならば、違いをもたらすことができる国で生活していた。それに対して、それらの難民たちは、自分たちの苦境を受け入れるざるを得なかった。
 大学生になり、瀬谷は世界の紛争について読み始め、専門家たちと話し、そしてルワンダに行くためにアルバイトをして貯金した。
1997年、彼女が大学3年生のときに、彼女の夢は実現した。
彼女はルワンダを訪れた、多数派のフツ族と少数派のツチ族の間の激しい紛争によって打撃を受けたルワンダの人々の、 助けになれるかもしれないと思いながら。
その紛争の間、約3か月間で、だいたい80万人から100万人の人々が命を奪われ、そして200万人の人々が難民キャンプに逃れた。
 大虐殺を生き延びた家族と共にすごす間に、瀬谷は何が起こったのかについて知ろうとした。
しかしながら、ほとんどの人がただ黙ったままだった。彼らの心的外傷はまだ癒えておらず、外部の人間に真の気持ちを明かす気にはなれなかったのだ。
瀬谷は、彼らに対して自分はまったく役に立たないと感じた。
彼女は、自分には技術も、知識も、そして経験も欠けていることがわかり、そしてそれらのすべてが、彼女がルワンダで出会ったような人々の問題を解決するのを助けるには、絶対に必要だった。
2
 4年生のときに、瀬谷は大学院での研究のために、英国へ行く計画を立てた。
彼女は、自分が紛争解決の領域における自分の専門分野を絞り込まなければならないとわかっていた。
国際的な組織やNGOのウェブサイトから情報を収集するだけでなく、図書館で文献を読み何時間も過ごした。
3か月後、彼女はあまりにも多くの情報を吸収したので、何を専攻すればよいか決められなくなった。
そうしていると、突然、次の文が彼女の目に飛び込んできた、「紛争地は現在、どのようにして元兵士と少年兵を社会復帰させるかという問題に直面している。」
これだ、と瀬谷は思った。
 1999年、瀬谷は英国で大学院での研究を始めた。
彼女が大学院の学生だったとき、ある日本のNGOからルワンダで働くよう要請された。
彼女の任務の一部は、ルワンダの首都キガリに彼らの事務所を開設することと、紛争で夫を失った女性たちに職業訓練の機会を提供する事業を始めることだった。
彼女は、10人の訓練生を選んだが、そのほとんどが20代か30代のシングルマザーだった、そして彼女たちが自立できるように裁縫と服の仕立てを教えた。
 この事業がほとんど終わったとき、瀬谷はシエラレオネで進行中のDDRの事業について聞いた。
彼女は自分の目で実際のDDRの過程を観察するために、シエラレオネに行く決心をしたが、問題があった。
彼女は、現地の状況を理解し、何が問題なのかを詳細に知っている人物を、どうすれば見つけられるのか。
もし彼女がこの状況を何とかできなければ、紛争解決の専門家として働くことを夢見ることさえすべきではなかった。
瀬谷はひるまなかった。
彼女は連絡をとり、そして元少年兵のためのケア・センターばかりでなく、戦争の犠牲者たちのキャンプを訪れることができた。
彼女はDDR事業における第一線の指導者のひとりと面会さえもした。
 2001年に大学院での研究を終えて、2002年1月に彼女はシエラレオネに戻った。
今回、彼女は訪問者ではなくて、国連のボランティアだった。
彼女の任務は、職業訓練の機会を提供することによって、元兵士の社会復帰を促進することだった。
様々な国から来た15名の職員のチームと共に働きながら、瀬谷はDDRにおける専門家としての知識・技能を次第に高めていった。
3
 停戦後、なされなければならない多くの仕事がなおある。
兵士たちは、仕事がなく、住む家がなく、家族を養うお金がない状態で、街に放り出されるかもしれない。
元兵士が武力紛争に戻る危険性は常にある。
彼らは社会に復帰できなければならないし、生産的な生活を送ることができなければならない。
これが社会復帰だ。
 2003年から2005年まで、瀬谷はDDRチームと共にアフガニスタンにいたが、そのチームは63,380人の兵士の武装を解除し、12,000以上の重火器、58,000にも及ぶ小型武器を回収した。
 2009年、瀬谷は気づくと、少年兵を含むもろさを抱えた若者たちを支援する新たな事業を立ち上げる任務を担ってスーダンにいた。
彼女は、これらの子どもたちの、そして彼らが戻っていく地域社会の信頼を得ねばならぬとわかっていた。
DDRにおいては信頼が重要な役割を果たす。
 瀬谷はマイケルという名の少年と出会ったが、彼は5年間、内戦における兵士だった。
その紛争が終わったとき、彼は警察部隊に転属されていた。
そのとき彼は学校に戻りたかった。
しかし彼は、どのように取りかかればいいのかわからなかった。
瀬谷は彼を支援しようと申し出たが、彼は瀬谷を信頼していなかった。
あまりにも多くの人々が、守らない約束をしていたのだ。
まず瀬谷は、マイケルの信頼を得ねばならなかった。
それから、彼女はマイケルの上官を、彼が学校に戻ることを許すよう説得しなければならなかった。
彼女は両方の仕事に成功した。
 マイケルの将来は困難で不安定だろう。
彼は、ほかの人たちを信頼できるようにならねばならないだろう。
彼は、自分を信じられるようにならねばならないだろう。
 瀬谷は、彼に、もうひとりでやっていかねばならないと伝えた。
「これはあなたの人生であって、私の人生ではない。これからは自分で考えねばならない。」 と彼女は言った。
マイケルは答えた、「いま僕は、自分が何をするのかわかる。これは僕の人生なのだから。」
瀬谷ルミ子にとっての、ひとつの小さな成功だった。
4
 いまや経験を積み、知識と技量を身につけた瀬谷だが、解決策を見つけるには、ただ知識や技術を持つているだけでは不十分だと確信している。
戦争や紛争で破壊された地域に、出来合いの解決策を持って行くわけではないだろう。
瀬谷は、解決策を見つけるには、人々に会って、彼らの言うことに耳を傾ける必要があると考えている。
 瀬谷はまた、過度な支援を与えることは、人々から自立する意志の力を奪うことがあると確信している。
瀬谷は言う、「私にできるのは、選択肢を作り出し、彼らを少し支援することだけです。彼らの生活や社会を何とかしていくのは、現地の人々の仕事です。」
 なさねばならない多くのことがある。
人の数は十分ではない。
十分な資金もない。
成功したことはあるが、その成功は限られている。
 瀬谷は言う、「たとえ私たちが、何か建設的なものを作り出したとしても、私たちがすべてを解決できるわけではないという状況もあると感じます。」
あなたの仕事はいつ終わるのかと尋ねられると、瀬谷は言う、「人々が、私たちに、もう必要ではありませんと告げるとき、私たちの仕事は終わるでしょう。」
 異なる文化的背景を持つ人々の苦境に対処していると、瀬谷はしばしば自分が困難にあることに気づく。
しかし、彼女にはDDRの専門家としての職業を選択したことに後悔はない。
状況が難しくなると、彼女は自身に言い聞かせる、「何かをしないことの言い訳を、決して見つけようとしてはならない。もしかすると、その問題に対する完璧な解決策を見出すことはできないかもしれない。でも、その問題の10パーセントを解決するために、何ができるかを考え始めることはできる。少なくとも、それは正しい方向への一歩だ。」
 瀬谷は、ひるむことがない。
彼女の同僚は、厳しい状況に直面しているときでさえも、彼女は感情に流されることを自分に許さない、と語る。
瀬谷は、私たちが困難にある人々に共感するだけでは不十分だと考えている。
我々は、彼らと共に選択肢を作り出していかねばならない。
結局のところ、人々は自分自身を助けなければならないのだ。

「自分の人生を設計しなさい」 瀬谷ルミ子のメッセージ
 私は、戦争被災の国で平和構築のために働くことを決意した、まさにその時を覚えている。
私は、ちょうど、今高校でこの教科書をよんでいるあなたぐらいの歳、3年生だった。
私は、社会全体に対して悲観的だった。
それは、バブル経済崩壊の直後だった。
日本経済は悪化していき、就職率は下がり続け、政治汚職のニュースが、メディアを通じてよく報じられた。
 高校最後の年の春だったが、私はまだ将来何をしたいのか、決めることができずにいた。
私は、勉強し続けるべきかどうか、また、何を専攻したらいいのかわからなかった。
私は、私の家が、経済的に私を大学へ行かせることができるのかどうか心配した。
私は、無力だと感じた。
 そのとき、私は、世界と私の人生に対する見方を変えた写真を目にした。
それは、ルワンダの難民キャンプにおけるある家族の写真だった。
その家族には、生きるという人間の基本的な権利さえなかった。
彼らの死さえ、記録されなかった。
私は無力だと感じたが、この家族には、まったく何の力も、また、どんな選択もなかった。
私は、人生は努力すれば変えられることに気づくこともなく、不満を言っていた。
私には、多くの機会と可能性があった。
努力しさえすれば、私は人生を変えることができた。
 私は不満を言うのを止め、紛争で苦しんでいる人々のために、できることをすると決意した。
その写真の中の家族は、私に世界に対する見方を変えるきっかけを与えた。
 私のあなたへのメッセージは、私が難民キャンプのその写真から得たものと同じだ。すなわち、違った見方で自分自身と世界を見なさい。
あの頃の私のように、あなたも高校生だ。
あなたにも、多くの選択肢と無制限の可能性がある。
人生をどう生きるかは、まったくあなた次第だ。
これは、覚えておくべきキーポイントだ、人は、自分の人生のデザイナーである。

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2015年05月02日

Crown E.C.3 Lesson 6

1
 近頃は、誰も魔法を信じない。
誰もが、かぼちゃは「シンデレラ」の中でしか馬車にならないことを知っている。
そして私たちは皆、うさぎは、トリックによってしか、一見何も入っていない帽子からは出て来ないと知っている。
しかし、今でも真面目に受け止められている「奇跡」、いわゆる多くの人が信じている超自然現象もある。
それは何らかの点で現実なのか、それとも科学的見地からまったくの出鱈目なのか。
現代の科学者は、超自然的なことと捉えられていることを、どのように扱うのだろうか。
 ある人々にとっては奇跡の一例である、ひとつのケースを検証することから始めよう。
超能力を持つと言われる人が、自分は「念力」で腕時計を再稼働できると主張した。
彼は、テレビの視聴者に、家にある、壊れた古い腕時計をどれか取って来るように言い、それから、彼が念力で遠くからそれを動かそうとする間、それを手で握り締めるように言ったものだ。
殆ど即座にスタジオの電話が鳴り、受話器の向こうの声が、自分の腕時計が動き出したと驚いて知らせたものだ。
この一連の出来事に対する、あなたの反応はどうだろうか。
あなたは、この男が持っていると主張する超自然的な力に、感服するだろうか。
それとも、何か疑わしいことが起きていると思い、このことに懷疑的な態度を取るだろうか。
 このケースでは、この一見奇妙な出来事に対する合理的説明を容易に与えることができる。
それはおそらくデジタル時計ではあまり当てはまらないだろうが、腕時計がばね仕掛けだった時代では、突然の動きが天府(時計の歯車)を始動させるので、止まっている腕時計を単に持ち上げるだけで、それを再稼働させられることがあった。
もしその時計が温められるなら、これはもっと容易に起こり得るし、人の手の熱はそれを行うに十分足り得る。
それは頻繁には起きないが、国中で1万人の人々に止まった時計を手に取らせ、温かい手で握り締めさせるなら、 頻繁に起こる必要もない。
持ち主が大いに興者して電話でそのニュースを伝え、テレビの視聴者全体を感心させるには、1万個の時計のうちたった1個が動き始めればいい。
動かなかった9,999個の時計については決して聞くことはない。
2
 デイビッド・ヒュームは、18世記スコットランドの著名な思想家であるが、奇跡について鋭い指摘をした。
彼は、奇跡を自然法則の破壊と定義することから始めた。
念力だけで時計を止めたり動かしたりすることや、カエルを王子に変身させることは、自然法則破壊の好例だろう。
そのような奇跡は、科学にとっては実に不穏だろう。
不穏だ、と言っても、本当に起きるとしたらの話だが。
それでは、私たちは奇跡の話にどう反応すべきか。
これが、ヒュームが目を向けた疑問であり、彼の答えは私が言及した鋭い指摘だった。
 もしヒュームの実際の言葉を知りたいなら、ここにそれがある。
いかなる証言も、奇跡を証明するのに十分ではない、その証言が誤りである可能性が、証明しようとしている事実より奇跡的であるというようなものでないならば。
 ヒュームの指摘をほかの言葉に置きかえてみよう。
もしジョンが、あなたに奇跡が起きたと言うなら、ジョンが嘘をつく(または勘違いしている)ことのほうがさらにもっと奇跡的であろう場合にのみ、あなたはそれを信じるべきだ。
たとえば、あなたは言うかも知れない、「私は命にかけてジョンを信頼する、彼は決して嘘をつかなぃ。ジョンが嘘をつくとしたら、それこそ奇跡だ。」と。
それはまったくいいのだが、ヒュームはこのようなことを言うだろう、「ジョンが嘘を言うかもしれないことが、どんなにあり得ないことであれ、それは本当に、ジョンが見たと主張する奇跡よりあり得ないことか。」
ジョンが、牛が月を跳び越えるのを見たと主張したと想定しよう。
ジョンがいかに正直であろうとも、彼が嘘をついているという考えは、牛が本当に月を跳び越えることより奇跡的ではないだろう。
したがって、あなたは、ジョンが嘘をついていた(または勘違いしていた)という説明のほうを好むはずだ。
3
 実際に起こったことを取り上げよう。
1917年、フランシス・グリフィスとエルシー・ライトという名の若い二人のイギリス人のいとこが写真を撮影し、彼女らはそれらが妖精の写真だと言った。
今の時代の目には、その写真は明らかな偽物だが、当時、写真術はまだ新しく、有名なシャーロック・ホー ムズの生みの親、偉大な作家サー・アーサー・コナン・ドイルですら、写真に騙された、そしてほかのかなり多くの人も同様だった。
歳月が流れ、フランシスとエルシーがおばあさんになると、彼女らは白状し、「妖精」 はただ紙の人形にすぎなかったことを認めた。
しかし、ヒュームのように考え、コナン・ドイルとほかの人たちが、なぜトリックに騙されないだけの分別を十分に備えておくべきだったのか、解き明かしてみよう。
もしそれが真実だとしたら、あなたは次の2つの可能性のどちらがより奇跡的だと考えるだろうか。
1. 本当に妖精がいて、花の間を飛んでいた。
2. エルシーとフランシスは写真を偽造していた。
 それはまったく議論になりませんね。
子どもはいつもごっこ遊びをしているし、それをするのはとても容易い。
たとえあなたがエルシーとフランシスをとてもよく知っていて、彼女たちがいたずらするなんて決して夢にも思わない、いつも正直な女の子たちだと感じたとしても、そしてもし彼女たちが嘘をつくなら、それは奇跡だとしても、ヒュームは何と言うだろう。
彼は、彼女たちが嘘をつく「奇跡」は、妖精の実在より、まだ小さい奇跡だと言うだろう。
私たちが理解できない何かが起き、それが如何にしてトリックや嘘になり得るかわからないと想定しよう。
それは超自然に違いないと結論づけるのは、果たして正しいだろうか。
いや、違う。
それは、さらなる検討や調査すべてに終止符を打つことになるだろう。
4
 では次に、私は、超自然の考え方に着目し、それがなぜ、私たちを取り巻く世界や宇宙で目にする物事の、本当の説明を、決して提供できないのかを説明したい。
実際、何かについて超自然的説明を主張することは、そのものをまったく説明していないし、さらにまずいことには、それが説明されるどんな可能性をも排することになる。
なぜ私はそう言うのか。
なぜなら「超自然」のどんなものも、定義上、自然法則の説明の範疇を超えざるを得ないからだ。
それは、科学と、過去400年かそれくらいに渡って、私たちが享受してきた知識における、大きな進歩の原動力となった、試行され検証されてきた科学的手法の範囲を超えざるを得ない。
あることが超自然的に起きたと言うことは、単に「私たちはそれがわからない」と言うことだけではなくて、「私たちはそれが決してわからない、だからわかろうとさえしない」と言うことだ。
 科学は正反対の手法を取る。
科学は、これままでのところ、すべてを説明できないその能力不足ゆえに繁栄しており、その能力不足を、疑問を持ち、可能な仮説を立て、それを検証し続けていく発奮材料として利用している、それで私たちは、真実へと少しずつ進む。
現在の私たちの、現実理解に反する何かが、起きるようなことがあれば、科学者はそれを挑戦と見なすだろう。
彼らは、現在の仮説を捨て去るか、あるいは少なくともそれを変更するだろう。
私たちが、真実であるものに少しずつ近づくのは、そのような変化とその後の検証を通してだ。
 奇跡、魔法、神話は面白くはあり得るが、真実にはそれ自身の魔法がある。
真実は、実際、その語の最良かつもっとも心踊る意味において、どの神話や奇跡よりもっと神秘的だ。
科学には、それ自身の魔法、すなわち、現実の魔法がある。
それは超自然でもなければ、トリックでもなくて、端的に言えば、ワンダフルだ。
ワンダフルであり、現実である。
現実だからワンダフルなのだ。

ネッシー
 ドーキンス教授が、1917年のあるとき、ふたりのイギリス人少女が、野で遊ぶ妖精の写真を撮ったことについて私たちに語る。
その写真は偽物だったが、多くの人が、複数の有名人でさえ、それらが本物だと信じた。
 そのようなことは、現代では起こり得ない。
 それとも、起こり得るだろうか。
 あなたは、これまでネッシーについて聞いたことがあるだろうか。
 何百年にもわたって、人々は、スコットランドのハイランド地方にある大きな湖、ネス湖に、水生怪獣が住んでいると報告してきた。
その怪獣は、「ネス湖の怪獣」あるいは短く「ネッシー」と呼ばれており、湖底深くに生息するが、時折陸地にやってくる巨大なヘビのような生物であるらしい。
ネッシー目撃を最初に報告した人物は、6世紀の聖コロンバだった。
 より現代では、1930年代に、何度かネッシーが目撃された。
湖を泳ぐ怪獣を示すと称する写真すらある。
科学者は、そのような生物が湖に生息する可能性は極めて低いと考えているが、まったくないとは言い切れない。
実際、ネッシー探索の科学的調査が何度か行われ、その中には一流大学の資金でなされたものもある。
今までのところ、誰1人決定的な目撃に至っていない。
 もっとも最近の調査は、2003年、科学者によって、600の水中音波探知ビームと、衛星技術を使って行われた。
これらは、小型ボートを識別するのに十分な解像度を持っていた。
それ相応の大きさのどんな生物も見つからなかった。
調査隊の大きな期特に反し、科学者は、ネス湖の怪獣は神話にすぎないと認めねばならなかった。
 そうとはいえ、地元の住民は、自分たちのネス湖には、水生怪獣が住んでぃるとまだ信じている。
 ドーキンス教授は、「奇跡、魔法、神話は楽しい・・・」と言う。
しかし、実際、 誰もそれらが本物であるとは信じない。
ネッシーは、ただの神話だよね。
それとも?

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posted by sakai shinji at 17:23 | Comment(0) | Crown E.C.3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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