2015年05月04日

Crown E.C.3 Lesson 8

1
 1960年代、世界規模の食料不足があった。
1958 年から1961年、中国における大飢饉で、少なくともl,500万人が亡くなった(3,000万人以上という人もいる)。
アジア、アフリカの何千万という人々が飢えに直面した。
何かがなされねばならなかった。
科学者たちは、政府や一般の農業従事者と協力し、解決策を見出した、緑の革命である。
 緑の革命には、3本の「柱」があった、すなわち、新種の作物、化学肥料と殺虫剤、灌漑である。
世界の食糧生産に、即時的で非常に有益な効果があった。
20世記末までに、農業生産性は世界的で劇的に向上した。
 緑の革命は大成功だった。
歴史上初めて、アフリカとアジアは、人口を養うに十分な食糧を手にし始めた。
インドは、飢餓の繰り返しを終わらせることができた。
 しかし、予期せぬ結果を招いた。
灌漑にとても多くの水が使用されているので、供給量が枯渇しつつある。
多くの国で、化学肥料が地下水を汚染している。
 水不足が、世界中でますます多くの問題を引き起こしている。
劇的な一例として、中央アジアのアラル海を考えてみよう。
「海」 と呼ばれているが、実際は湖で、かつては世界第4位の大きさで、ほぼ九州と四国を合わせた面積を覆っていた。
それは、青い水域、美しい湖岸、にぎやかな漁港で有名だった。
 1973年、1989年、2000年のアラル海の写真を見てみよう。
それは、かつてのそれよりはるかに小さい。
地域の漁業は破壊され、大変な経済的困難をもたらしている。
 アラル海に、何が起きたのか。
かつて、ふたつの大河川が湖に流れ込んでいたが、今日、その水の殆どが灌漑に使われ、湖は干上がりつつある。
深刻な公害もある。
アラル海の後退は、地元の気候変動を引き起こし、夏はより暑くて乾燥し、冬はより寒くて長くなっている。
その結果は、「地球最悪の環境災害のひとつ」 と呼ばれている。
2
 緑の革命には多くの予期せぬ結果がある。
アラル海の干上がりは、部分的には緑の革命により引き起こされた。
インドでは、少なくとも農業従事者の4分の1が、自然が補てんできない地下水を使っている。
化学肥料が、地下水井戸からの飲料水汚染の一因となっている。
国際水管理研究所のある幹部は言う、「状況は悪化している。それは、慘事へ向かう旅のようだ。」と。
 水不足は現在、世界中で起きていて、まさに20世紀の食糧不足と同様に、21世記の深刻な問題なのかもしれない。
2025年までに、18億の人々が、極めて深刻な水不足の国、または地域に生活しているだろうし、世界人口の3分の2が、水不足の状況下で暮らしているかもしれない。
 農業従事者は、食物生産に十分な水を得られない。
都市では、人口増加と経済成長に伴って、水の獲得競争が悪化している。
 世界の土地の4分の1が、悪くなっている。
多くの大河川が、1年のある時期に干上がる。
ヨーロッパと北米の湿地の半分は、もはや存在しない。
多くの場所で、環境への影響は、修復不能だ。
 水不足は今や、緑の革命を脅かしている。
将来の十分な食糧生産は、水のよりよい使用を目指す更なる努力なしには不可能であろう。
長い間、農業生産の進歩は、「収穫高」、すなわちひとつの土地区域から理論上収穫可能な生産物の量によって測られてきた。
水不足の地域では今や、単位土地あたりの収穫量の最大化は、単位使用水量あたりの最大収穫量の達成に取って替わられるべきだ。
これは、よい農業の慣行と合わせた、雨水および灌漑用水のよりよい利用を必要とする。
3
 ちょうど20世紀に緑の革命が必要だったように、21世記には「青の革命」が必要だ。
ちょうど緑の革命に3本の「柱」があったように、青の革命にも3本の柱がある、すなわち、効率的な灌漑、現実的な価格づけ、水採取である。
 より効率的な灌漑のためのひとつの考え方が、「点滴灌漑」と呼ばれるシステムだ。
水は、畑全体を浸すのではなく、チューブを通して根元にゆっくりとしたたらせることにより、個々の苗に直接供給される。
ヨルダンでは、その手法が、収穫量を増やす一方、水の使用量を3分の1減少させた。
イスラエルの農業従事者は、点滴灌漑と都市の水の農地へのリサイクルの両方を使って、生産性を劇的に向上させた。
 青の革命のもうひとつの柱は、現実的な価格づけである。
灌漑用水の価格は、しばしばとても低いため、節水への経済的動機づけがほとんどない。
ほとんどの国で、現行のシステムは前世紀の中頃に作られたが、その頃、水は無限に無料の資源とみなされていた。
水の価格は、より現実的な水準に変更されねばならない。
 水採取とは、雨水と廃水を効率的に貯蔵し、使用することを意味する。
19世記および20世紀初頭、アメリカの多くの家には雨水を貯める雨水タンクがあった。
水採取は、日本の江戸時代でも一般的だった。
しかし20世記、水道栓からの安価な水のおかげで、水採取の確実な衰退が見られた。
21世紀には、その復活が見られそうだ。
雨が降る限り、やるべきことは、貯蔵タンクまたは貯水池を作ることだけだ。
 都市部では、水採取は大規模に適用され得る。
廃水は、処理され、再利用され得る。
この図では、これがどのようになされ得るかを示している。
 都市の廃水は、川に捨てられることなく処理される。
@ 有害な汚染物質が除去される一方、養分は作物用肥料として利用される。
A 処理済の水は、点滴灌漑に利用される。
B 農地で採れた新鮮な生産物が、都市で販売される。
 このような水採取設備は、高くつくかもしれないが、長期的には帳尻が合う。
4
 水の充足と食糧の充足は、密接に結びついている。
しかしひとつの大きな問題は、私たちは食糧を生産するためだけに水が必要なのではないということだ。
水はまた、あらゆる種類の製品の製造、加工のほとんどすべての工程で必要とされる。
おそらくあなたは、自分が毎日どれだけの水を使っているか知らないだろう。
どれくらいだとあなたは思うだろうか。
食べ物と飲み物で3か4リットル、洗濯で15か20リットルくらいだろうか。
多くても1日に30ないし40 リットルだろうか。
平均的な日本人が、毎日3,500リットル以上の水を使っていると言われたら、あなたならどう思うだろうか。
これは真実だが、いかにしてそんなことになり得るのか。
 答えは、「仮想水」という概念に見出せる、これは、あなたが間接的に消費する水のことだ。
たとえば、1キログラムの牛肉には、飼料穀物の栽培に必要な水の総量ゆえに、15,497リットルの仮想水が必要だ。
そういうわけで、あなたが昼食に牛丼を食べるなら、ほぼ2,000リットルの仮想水を消費するだろう。
あなたのその新品の綿のジーンズには、6,670リットルの水が掛かっており、そのほとんどが綿花生産に使われた。
 「ウォーターフットプリント(水の足跡)」という用語は、どれだけ仮想水を消費するかを示すのに使われている。
一国のウォーターフットプリントは、その国の水資源の使用量、プラス仮想水輸入量、マイナス仮想水輸出量で算出される。
日本は、年間ひとり当たり1,380立方メートルのウォーターフットプリントを持っている。
日本は水が豊富だが、私たちの食糧自給率は、わずか約40パーセントにすぎない。
食糧を輪入することは、仮想水を輸入することを意味する。
実際、日本は、それが輪出する15倍もの仮想水を輸入している。
世界のほかのどの国も、輪入された水と輸出された水にこれほど大きな隔たりはない。
 この大きな差は、日本には悪い知らせのように聞こえるかもしれないが、それはそうであるとは限らない。
仮想水の国際取引は、実際よいことだ。
それは、もっとも理に適う場所で、食物が育てられるのを可能にし、貿易相手国との間によい関係を築く。
 自然の雨の循環のおかげで、水は最も再生しやすい資源だ。
私たちが国家として、そして個人として、力を合わせれば、すべての人に十分な水が行き渡る。
私たちが、20世紀の緑の革命の長所と、21世紀の青の革命を結びつけることができれば、青と緑の明るい来来を手に入れられるだろう。

水が必要か? それなら作れ!
 2025年までに、世界人口の3分の2が、水不足の状況に置かれる可能性がある。
それなら了解した。もしそれが必要なら、作ろう。
 それは簡単なはずだ。
 単なる基礎化学だ。
水は、水素原子2個と酸素原子1個からできている。
水を作るには、それらを互いに衝突させればいいだけで、そうすれば、世界の水問題は解決する。
 それは、理論的には可能だが、実行は危険だろう。
水は、水素原子と酸素原子からできているとはいえ、単にそれらを混ぜ合わせてもうまくいかない。
ばらばらの水素原子と酸素原子のままだろう。
各原子の電子軌道が結びつかなければならず、それが起きるには、急激なエネルギー爆発が必要となる。
 水素は可燃性だ。
酸素は燃焼を助ける。
そのエネルギー爆発を起こすのは容易いだろう。
必要なのは火花だけだ、そしてボン!
原子の電子軌道は結ばれるだろう。
水ができる。
 しかし爆発も伴うだろう。
大量の水素と酸素があると、致命的な爆発が起こる。
いかに致命的かを理解するため、不運な飛行船ヒンデンブルグ号のことを考えてみてほしい。
それは宙に浮くよう、水素で満たされていた。
1937年5月6日、大西洋を横断し、ニュージャージーで着陸態勢に入ったとき、静電気により、あるいは、もしかしたら、破壊工作により、水素爆発が起きた。
ヒンデンブルグ号は巨大な火の玉となった。
30秒で完全に破壊された。
搭乗していた多くの人が亡くなった。
 この爆発で大量の水が生成されたが、繰り返したくなる実験ではない。
 世界的な水不是に見合う十分な水を作るには、とても危険で、大規模な工程が必要となるだろう。
かつて、内燃機関は、爆発の反復を利用しているわけだが、実用にはとても危険すぎると考えられていた。
もし水がもっと希少で、価値が上がれば、水を作る工程を実際に見つけ出す人が現れるかもしれない。
なにしろ、「必要は発明の母」と言われるのだから。



体調管理に 癌も克服 奇跡のハーブ iHerb アイハーブ
posted by sakai shinji at 15:13 | Comment(0) | Crown E.C.3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月03日

Crown E.C.3 Lesson 7

1
 ひとつの国にはふつう、その国のほとんどの人が話すひとつの言語がある。
しかし、その人々の多くは、ほかの言語も習得するだろう。
そして、育った国の言語を話す移民もいるだろう。
すべての国は多言語国家である。
いくつかは驚くほどそうだ(驚くほど多言語化が進んでいる国もある)。
たとえば、アメリカ合衆国全土では何百もの言語が話されている。
 我々は、しばしばイングランドを世界の単一言語地域としてみなすが、英国でさえ、近年はかなり多言語地域だ。
そのもっとも初期の時代から、それは多言語国家だった。
アングロサクソン族が、5世紀にその国に辿り着いたとき、彼らは、人々がラテン語(古代ローマ人が大ブリテン島にいたときから)と様々な英国の言語を話しているのに気づいた。
ほかのヨーロッパ請国の言語も、おそらく、英国とそのほかのヨーロッパ諸国との交易の結果、その島で話されていただろう。
 今日、莫大な数の移住者のために、英国における多言語使用の量は急激に上昇した。
インナーロンドンの小学校の半数では、児童の半数以上が、英語を母語として話さない。
そして高校でも、その数はそれほど低くなく、40%である。
1999年、ロンドンの学校の85万人の子どもたちの母語の調査で、300 以上もの言語が使用されていることがわかった。
もちろん、もっとも一般的なのは英語だった。
その次にアジアのいくつかの言語、地中海周辺の言語、そしてアフリカの言語が来た。
 状況はニューヨーク市でも同様だ、そこでは、カリブ海地域出身の多くのスペイン語を話す人たちと、さらに最近ではアジア人のために、とくに学校において、コミュニケーションの問題が生じている。
5歳以上のすべてのニューヨーク市民のたった72パーセントが、家庭で英語のみを話すに過ぎない。
その結果、学校は、英語を第二言語として教えなければならない。
2
 なぜ移住者たちは自分の言語を使い続けるのか。
世界の新しい場所へ行くとき、なぜ彼らは母語を捨て、新しい言語を学ばないのか。
もちろん、多くの人はそうする(移住した地域の言語を学ぶ)が、多くの人は、可能なときはいつでも自分たちの第一言語を話し、それが使われる地域社会を形成し、子どもたちにそれを教えながら、それが絶えないようにあらゆる努力をする。
そして、受け入れる国も、しばしば、可能な限り多くの言語においてサービスを提供しながら、多言語使用を推進するため、あらゆる努力をする。
 日本の多くの都市は、韓国・朝鮮語や中国語、ポルトガル語、英語を含む多数の言語で、公共サービスを提供している。
警察や法定制度においても、多数の言語で通訳を提供している。
日本中の電車や地下鉄の駅の標識の多くは、韓国・朝鮮語や中国語、英語で書かれている。
テレビでは毎日、ニュースがいくつかの外国語で放送されている。
 もしあなたが、ほかの国に移住するなら、自分の母語を完全に捨てていきたいだろうか。
もちろん、そうは思わないだろう。
祖国には、依然として、話したい手紙を書きたい友だちや親戚がいる。
そして、たとえいなくても、頭の中には、祖国の文化的な知識や記憶がすべて残っている。
母語はアイデンティティー、つまり、自分が誰であるかの意識の一部を形成する。
そしてそれは、一番よく知っている人々の集団、つまりともに成長してきた人々のアイデンティティーの一部を形成する。
 そういうわけで、人々は、自分たちの言語が侮辱されたり、無視されたり、あるいは最悪の場合、使用が禁止されたりすると、慣りを覚えるのだ。
政府が、現地語の公での使用を禁じているのを発見するのは、まったく稀なことではない。
フランコ将軍が、スペインの総統だったとき、スペイン語が公での使用を許された唯一の言語だった。
カタルーニャ語やバスク語、ガリシア語のようなスペインの現地の言語は、使用を抑制された。
子どもに現地語の名前をつけることさえできなかった。
今状況は異なっている。
3
 ときどき、ある国の人々が、自分たちの言語を擁護するために、デモ行進をするのを新聞で読むことがある。
暴動やハンガーストライキにさえなることがある。
それは、ケベック州で起きたが、そこではフランス語を話す人たちが、自分たちの言語が、より公の場で使われるよう望んでいる。
それは、ベルギーでも起きたが、そこではフランス語を話す人たちとフラマン語を語す人たちが、しばしば衝突している。
それは、ウェールズやインド、ほかのいくつかの国々でも起きた。
どうしてこのようなことが起きるのか。
それは、人々が、自分たちの言語の重要性を強く感じているため、暴動やハンガーストライキで命を危険にさらしてまでも、なんとかしてそれを守る覚悟があるからである。
 そのような出来事の中で、もっとも有名なもののひとつが、1952年2月21日にダッカ、当時の東パキスタンで起きた。
(東パキスタンは現在のバングラデシュである。)
 ある学生のグループが、ウルドゥー語とともにベンガル語を東パキスタンの公用語として使用することを支持するデモを行った。
警察が発砲し、数人が亡くなった。
その瞬間は、まだ忘れられていない。
国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)は、1999年11月に、2月21日を、国際母語デーと宣言することを決定し、世界中のすべての母語を賞賛した。
記念日は私たちに物事の大切さを思い出させる。
だから、誕生日や祭典があるのだ。
言語の記念日はあまり多くない、だからそれらが開催される日に、それらを思い出すのはよいことだ。
毎年、たったふたつの大きな記念日がある、2月21日の国際母語デーと、9月26日のヨーロッパ言語の日だ。
それらは、同じ目標を共有している、すなわち、人々に言語の多様性の重要性を意識させ、言語学習や二言語使用を促進させることである。
4
 二言語使用は、アメリカや英国、西ヨーロッパのような地域では大きな問題である。
それは、これらの地域が、何世紀もの間、大部分の人々がたったひとつの言語しか話さず、ほかの言語を劣っていると見なした地域だからだ。
スペイン語はスペインの、フランス語はフランスの、英語は英国の言語だった。
ブランコ時代のスペインの場合のように、ほかのどの言語も重要でないと見なされ、あるいは抑制されさえした。
ほかの国々も同様なことをした。
100年以上前、ウェールズの学校で、ウェールズ語を話しているのを聞かれると罰せられた。
北西フランスのブルターニュの学校で、ブルターニュ語を話しているところを見つけられても同じだった。
今日、これらの地域は、再び自分たちの言語に対する敬意を求めて抵抗している。
二言語使用は政治的問題になっている。
 世界のいくつかの場所で、支配的言語は、その国が巨大帝国を築いた結果である。
ある国が別の国の支配権を握ると、その結果は、たいてい、負けた国が侵略してきた国の言語を受け入れ、それを公用語にするということだ。
 そういうわけで、中南米の国々のほとんどは、スペイン語あるいはポルトガル語を使い、アフリカの多くの国々ではフランス語と英語が使われ、北米、南アジア、オーストラリア、そしてニュージーランドでは英語が使われている。
二言語使用は、それらの地域でも政治的問題になり得る、特に、新しい言語が、元々ある言語の存在を脅かす場合に。
 二言語使用、あるいはそのことについては多言語使用もそうであるが、私たちが生活するこのグローバル化した世界においては、動かし難い現実である。
私たちの母語が、私たちのアイデンティティーを築き、維持するのに大切な役割を担っているという事実を考慮して、 言語の多様性を促進させることはとても重要である。
二言語使用に関わる政治的問題によって引き起こされ得る争いもあるかもしれないが、私たちは、寛容と対話をもってその因難を乘り越える必要がある。
結局のところ、抑圧されることなく自由に母語を語せるということは、私たちにとってとても重要だ、なぜなら、私たちの母語は、私たちの伝統を維持し発展させるために必要不可欠なものだからだ。

バイリンガルの恩惠
 二言語併用を研究している認知神経科学者は、二言語併用が、脳にどのような影響を与えるかについての見解を変更し始めている。
 一言語だけを話す子供と、二言語を話す子供とでは、言語処理の方法に大きな違いがある。
5、6歳の子供に言語の問題を解かせると、一言語だけを話す子供も二言語を話す子供も、言語についての知識の総量はかわらない。
 しかし、ある点に関して、違いがある。
たとえば、子供たちに、「カキが運動靴をはいている。」 というような意味の通らない文が、文法的に正しいかどうかを聞いてみる。
一言語だけを話す子供は、「それは変だよ。」と答えるだろう。
しかし、二言語を語す子供は、「それは変だよ、でも文法的にはOKだよ。」と言うだろう。
二言語使用者は、大切な情報に注意を払い、大切でないことを無視する能力がある。
 脳には、総括マネージャーのような働きをする実行制御システムがある。
その仕事は大切なことに集中させることだ。
二つの言語を知っていて、それらを定期的に使うのであれば、話すたびに両方の言語が現れて、脳の実行制御システムは、すべてを分類し、その瞬間大切なものに注意を向けなければならない。
二言語使用の人はそのシステムをより頻繁に使い、そのことがそのシステムをさらに効率よくする。
 しばらくの問、1960年代頃まで、二言語使用は不利であるという社会通念があった。
二言語話せる人は、両方の言語が不充分だと考えられていた。
いまでは、まったく逆だとわかっている。
二言語使用者は、一言使用者よ り も明らかに有利である。
 人は、母語を子供たちへ伝えていくべきである。
それには、二つの大きな理由がある。
第一に、母語は子供たちと祖先とを結びつけるからである。
第二に、二言語使用は有利であるからだ。
二言語以上を定期的に使うと、ある種頭の体操になる。
それは、脳をより強くする。
 しかし、 高校で履修している外国語の授業が、脳をより強くすると思ってはいけない。
脳を成長させたいなら、両方の言語を常に使わなければならない。
ときどき使うくらいでは、二言語使用の恩惠は得られないだろう。

体調管理に 癌も克服 奇跡のハーブ iHerb アイハーブ
posted by sakai shinji at 13:32 | Comment(0) | Crown E.C.3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月02日

Crown E.C.3 Lesson 6

1
 近頃は、誰も魔法を信じない。
誰もが、かぼちゃは「シンデレラ」の中でしか馬車にならないことを知っている。
そして私たちは皆、うさぎは、トリックによってしか、一見何も入っていない帽子からは出て来ないと知っている。
しかし、今でも真面目に受け止められている「奇跡」、いわゆる多くの人が信じている超自然現象もある。
それは何らかの点で現実なのか、それとも科学的見地からまったくの出鱈目なのか。
現代の科学者は、超自然的なことと捉えられていることを、どのように扱うのだろうか。
 ある人々にとっては奇跡の一例である、ひとつのケースを検証することから始めよう。
超能力を持つと言われる人が、自分は「念力」で腕時計を再稼働できると主張した。
彼は、テレビの視聴者に、家にある、壊れた古い腕時計をどれか取って来るように言い、それから、彼が念力で遠くからそれを動かそうとする間、それを手で握り締めるように言ったものだ。
殆ど即座にスタジオの電話が鳴り、受話器の向こうの声が、自分の腕時計が動き出したと驚いて知らせたものだ。
この一連の出来事に対する、あなたの反応はどうだろうか。
あなたは、この男が持っていると主張する超自然的な力に、感服するだろうか。
それとも、何か疑わしいことが起きていると思い、このことに懷疑的な態度を取るだろうか。
 このケースでは、この一見奇妙な出来事に対する合理的説明を容易に与えることができる。
それはおそらくデジタル時計ではあまり当てはまらないだろうが、腕時計がばね仕掛けだった時代では、突然の動きが天府(時計の歯車)を始動させるので、止まっている腕時計を単に持ち上げるだけで、それを再稼働させられることがあった。
もしその時計が温められるなら、これはもっと容易に起こり得るし、人の手の熱はそれを行うに十分足り得る。
それは頻繁には起きないが、国中で1万人の人々に止まった時計を手に取らせ、温かい手で握り締めさせるなら、 頻繁に起こる必要もない。
持ち主が大いに興者して電話でそのニュースを伝え、テレビの視聴者全体を感心させるには、1万個の時計のうちたった1個が動き始めればいい。
動かなかった9,999個の時計については決して聞くことはない。
2
 デイビッド・ヒュームは、18世記スコットランドの著名な思想家であるが、奇跡について鋭い指摘をした。
彼は、奇跡を自然法則の破壊と定義することから始めた。
念力だけで時計を止めたり動かしたりすることや、カエルを王子に変身させることは、自然法則破壊の好例だろう。
そのような奇跡は、科学にとっては実に不穏だろう。
不穏だ、と言っても、本当に起きるとしたらの話だが。
それでは、私たちは奇跡の話にどう反応すべきか。
これが、ヒュームが目を向けた疑問であり、彼の答えは私が言及した鋭い指摘だった。
 もしヒュームの実際の言葉を知りたいなら、ここにそれがある。
いかなる証言も、奇跡を証明するのに十分ではない、その証言が誤りである可能性が、証明しようとしている事実より奇跡的であるというようなものでないならば。
 ヒュームの指摘をほかの言葉に置きかえてみよう。
もしジョンが、あなたに奇跡が起きたと言うなら、ジョンが嘘をつく(または勘違いしている)ことのほうがさらにもっと奇跡的であろう場合にのみ、あなたはそれを信じるべきだ。
たとえば、あなたは言うかも知れない、「私は命にかけてジョンを信頼する、彼は決して嘘をつかなぃ。ジョンが嘘をつくとしたら、それこそ奇跡だ。」と。
それはまったくいいのだが、ヒュームはこのようなことを言うだろう、「ジョンが嘘を言うかもしれないことが、どんなにあり得ないことであれ、それは本当に、ジョンが見たと主張する奇跡よりあり得ないことか。」
ジョンが、牛が月を跳び越えるのを見たと主張したと想定しよう。
ジョンがいかに正直であろうとも、彼が嘘をついているという考えは、牛が本当に月を跳び越えることより奇跡的ではないだろう。
したがって、あなたは、ジョンが嘘をついていた(または勘違いしていた)という説明のほうを好むはずだ。
3
 実際に起こったことを取り上げよう。
1917年、フランシス・グリフィスとエルシー・ライトという名の若い二人のイギリス人のいとこが写真を撮影し、彼女らはそれらが妖精の写真だと言った。
今の時代の目には、その写真は明らかな偽物だが、当時、写真術はまだ新しく、有名なシャーロック・ホー ムズの生みの親、偉大な作家サー・アーサー・コナン・ドイルですら、写真に騙された、そしてほかのかなり多くの人も同様だった。
歳月が流れ、フランシスとエルシーがおばあさんになると、彼女らは白状し、「妖精」 はただ紙の人形にすぎなかったことを認めた。
しかし、ヒュームのように考え、コナン・ドイルとほかの人たちが、なぜトリックに騙されないだけの分別を十分に備えておくべきだったのか、解き明かしてみよう。
もしそれが真実だとしたら、あなたは次の2つの可能性のどちらがより奇跡的だと考えるだろうか。
1. 本当に妖精がいて、花の間を飛んでいた。
2. エルシーとフランシスは写真を偽造していた。
 それはまったく議論になりませんね。
子どもはいつもごっこ遊びをしているし、それをするのはとても容易い。
たとえあなたがエルシーとフランシスをとてもよく知っていて、彼女たちがいたずらするなんて決して夢にも思わない、いつも正直な女の子たちだと感じたとしても、そしてもし彼女たちが嘘をつくなら、それは奇跡だとしても、ヒュームは何と言うだろう。
彼は、彼女たちが嘘をつく「奇跡」は、妖精の実在より、まだ小さい奇跡だと言うだろう。
私たちが理解できない何かが起き、それが如何にしてトリックや嘘になり得るかわからないと想定しよう。
それは超自然に違いないと結論づけるのは、果たして正しいだろうか。
いや、違う。
それは、さらなる検討や調査すべてに終止符を打つことになるだろう。
4
 では次に、私は、超自然の考え方に着目し、それがなぜ、私たちを取り巻く世界や宇宙で目にする物事の、本当の説明を、決して提供できないのかを説明したい。
実際、何かについて超自然的説明を主張することは、そのものをまったく説明していないし、さらにまずいことには、それが説明されるどんな可能性をも排することになる。
なぜ私はそう言うのか。
なぜなら「超自然」のどんなものも、定義上、自然法則の説明の範疇を超えざるを得ないからだ。
それは、科学と、過去400年かそれくらいに渡って、私たちが享受してきた知識における、大きな進歩の原動力となった、試行され検証されてきた科学的手法の範囲を超えざるを得ない。
あることが超自然的に起きたと言うことは、単に「私たちはそれがわからない」と言うことだけではなくて、「私たちはそれが決してわからない、だからわかろうとさえしない」と言うことだ。
 科学は正反対の手法を取る。
科学は、これままでのところ、すべてを説明できないその能力不足ゆえに繁栄しており、その能力不足を、疑問を持ち、可能な仮説を立て、それを検証し続けていく発奮材料として利用している、それで私たちは、真実へと少しずつ進む。
現在の私たちの、現実理解に反する何かが、起きるようなことがあれば、科学者はそれを挑戦と見なすだろう。
彼らは、現在の仮説を捨て去るか、あるいは少なくともそれを変更するだろう。
私たちが、真実であるものに少しずつ近づくのは、そのような変化とその後の検証を通してだ。
 奇跡、魔法、神話は面白くはあり得るが、真実にはそれ自身の魔法がある。
真実は、実際、その語の最良かつもっとも心踊る意味において、どの神話や奇跡よりもっと神秘的だ。
科学には、それ自身の魔法、すなわち、現実の魔法がある。
それは超自然でもなければ、トリックでもなくて、端的に言えば、ワンダフルだ。
ワンダフルであり、現実である。
現実だからワンダフルなのだ。

ネッシー
 ドーキンス教授が、1917年のあるとき、ふたりのイギリス人少女が、野で遊ぶ妖精の写真を撮ったことについて私たちに語る。
その写真は偽物だったが、多くの人が、複数の有名人でさえ、それらが本物だと信じた。
 そのようなことは、現代では起こり得ない。
 それとも、起こり得るだろうか。
 あなたは、これまでネッシーについて聞いたことがあるだろうか。
 何百年にもわたって、人々は、スコットランドのハイランド地方にある大きな湖、ネス湖に、水生怪獣が住んでいると報告してきた。
その怪獣は、「ネス湖の怪獣」あるいは短く「ネッシー」と呼ばれており、湖底深くに生息するが、時折陸地にやってくる巨大なヘビのような生物であるらしい。
ネッシー目撃を最初に報告した人物は、6世紀の聖コロンバだった。
 より現代では、1930年代に、何度かネッシーが目撃された。
湖を泳ぐ怪獣を示すと称する写真すらある。
科学者は、そのような生物が湖に生息する可能性は極めて低いと考えているが、まったくないとは言い切れない。
実際、ネッシー探索の科学的調査が何度か行われ、その中には一流大学の資金でなされたものもある。
今までのところ、誰1人決定的な目撃に至っていない。
 もっとも最近の調査は、2003年、科学者によって、600の水中音波探知ビームと、衛星技術を使って行われた。
これらは、小型ボートを識別するのに十分な解像度を持っていた。
それ相応の大きさのどんな生物も見つからなかった。
調査隊の大きな期特に反し、科学者は、ネス湖の怪獣は神話にすぎないと認めねばならなかった。
 そうとはいえ、地元の住民は、自分たちのネス湖には、水生怪獣が住んでぃるとまだ信じている。
 ドーキンス教授は、「奇跡、魔法、神話は楽しい・・・」と言う。
しかし、実際、 誰もそれらが本物であるとは信じない。
ネッシーは、ただの神話だよね。
それとも?

体調管理に 癌も克服 奇跡のハーブ iHerb アイハーブ
posted by sakai shinji at 17:23 | Comment(0) | Crown E.C.3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。