2015年04月29日

Crown.E.C.3 Lesson 5

1
 子どもの頃、瀬谷はいつも「未知なるもの」に引きつけられた。
彼女の心の中では、外国はとても遠く思え、そしてもちろん彼女にとって「来知なるもの」に思えた。
彼女は地図帳を開きアフリカを見つけると、とても興奮した。
 瀬谷は高校生のときに、ルワンダ人の難民キャンプで、死にかけている母親とその小さな子どもの写真を見て、衝撃を受けた。
彼女は自分に問いかけた、「私はここ日本で何をしているのだろう、スナック菓子を食べながら、この写真を見て。」
彼女は思った、「私たちの間にあるのはカメラのレンズだけだけれど、日本での私の生活と彼らの生活の間には決定的な違いがある。」
彼女は、自分が望むならば、違いをもたらすことができる国で生活していた。それに対して、それらの難民たちは、自分たちの苦境を受け入れるざるを得なかった。
 大学生になり、瀬谷は世界の紛争について読み始め、専門家たちと話し、そしてルワンダに行くためにアルバイトをして貯金した。
1997年、彼女が大学3年生のときに、彼女の夢は実現した。
彼女はルワンダを訪れた、多数派のフツ族と少数派のツチ族の間の激しい紛争によって打撃を受けたルワンダの人々の、 助けになれるかもしれないと思いながら。
その紛争の間、約3か月間で、だいたい80万人から100万人の人々が命を奪われ、そして200万人の人々が難民キャンプに逃れた。
 大虐殺を生き延びた家族と共にすごす間に、瀬谷は何が起こったのかについて知ろうとした。
しかしながら、ほとんどの人がただ黙ったままだった。彼らの心的外傷はまだ癒えておらず、外部の人間に真の気持ちを明かす気にはなれなかったのだ。
瀬谷は、彼らに対して自分はまったく役に立たないと感じた。
彼女は、自分には技術も、知識も、そして経験も欠けていることがわかり、そしてそれらのすべてが、彼女がルワンダで出会ったような人々の問題を解決するのを助けるには、絶対に必要だった。
2
 4年生のときに、瀬谷は大学院での研究のために、英国へ行く計画を立てた。
彼女は、自分が紛争解決の領域における自分の専門分野を絞り込まなければならないとわかっていた。
国際的な組織やNGOのウェブサイトから情報を収集するだけでなく、図書館で文献を読み何時間も過ごした。
3か月後、彼女はあまりにも多くの情報を吸収したので、何を専攻すればよいか決められなくなった。
そうしていると、突然、次の文が彼女の目に飛び込んできた、「紛争地は現在、どのようにして元兵士と少年兵を社会復帰させるかという問題に直面している。」
これだ、と瀬谷は思った。
 1999年、瀬谷は英国で大学院での研究を始めた。
彼女が大学院の学生だったとき、ある日本のNGOからルワンダで働くよう要請された。
彼女の任務の一部は、ルワンダの首都キガリに彼らの事務所を開設することと、紛争で夫を失った女性たちに職業訓練の機会を提供する事業を始めることだった。
彼女は、10人の訓練生を選んだが、そのほとんどが20代か30代のシングルマザーだった、そして彼女たちが自立できるように裁縫と服の仕立てを教えた。
 この事業がほとんど終わったとき、瀬谷はシエラレオネで進行中のDDRの事業について聞いた。
彼女は自分の目で実際のDDRの過程を観察するために、シエラレオネに行く決心をしたが、問題があった。
彼女は、現地の状況を理解し、何が問題なのかを詳細に知っている人物を、どうすれば見つけられるのか。
もし彼女がこの状況を何とかできなければ、紛争解決の専門家として働くことを夢見ることさえすべきではなかった。
瀬谷はひるまなかった。
彼女は連絡をとり、そして元少年兵のためのケア・センターばかりでなく、戦争の犠牲者たちのキャンプを訪れることができた。
彼女はDDR事業における第一線の指導者のひとりと面会さえもした。
 2001年に大学院での研究を終えて、2002年1月に彼女はシエラレオネに戻った。
今回、彼女は訪問者ではなくて、国連のボランティアだった。
彼女の任務は、職業訓練の機会を提供することによって、元兵士の社会復帰を促進することだった。
様々な国から来た15名の職員のチームと共に働きながら、瀬谷はDDRにおける専門家としての知識・技能を次第に高めていった。
3
 停戦後、なされなければならない多くの仕事がなおある。
兵士たちは、仕事がなく、住む家がなく、家族を養うお金がない状態で、街に放り出されるかもしれない。
元兵士が武力紛争に戻る危険性は常にある。
彼らは社会に復帰できなければならないし、生産的な生活を送ることができなければならない。
これが社会復帰だ。
 2003年から2005年まで、瀬谷はDDRチームと共にアフガニスタンにいたが、そのチームは63,380人の兵士の武装を解除し、12,000以上の重火器、58,000にも及ぶ小型武器を回収した。
 2009年、瀬谷は気づくと、少年兵を含むもろさを抱えた若者たちを支援する新たな事業を立ち上げる任務を担ってスーダンにいた。
彼女は、これらの子どもたちの、そして彼らが戻っていく地域社会の信頼を得ねばならぬとわかっていた。
DDRにおいては信頼が重要な役割を果たす。
 瀬谷はマイケルという名の少年と出会ったが、彼は5年間、内戦における兵士だった。
その紛争が終わったとき、彼は警察部隊に転属されていた。
そのとき彼は学校に戻りたかった。
しかし彼は、どのように取りかかればいいのかわからなかった。
瀬谷は彼を支援しようと申し出たが、彼は瀬谷を信頼していなかった。
あまりにも多くの人々が、守らない約束をしていたのだ。
まず瀬谷は、マイケルの信頼を得ねばならなかった。
それから、彼女はマイケルの上官を、彼が学校に戻ることを許すよう説得しなければならなかった。
彼女は両方の仕事に成功した。
 マイケルの将来は困難で不安定だろう。
彼は、ほかの人たちを信頼できるようにならねばならないだろう。
彼は、自分を信じられるようにならねばならないだろう。
 瀬谷は、彼に、もうひとりでやっていかねばならないと伝えた。
「これはあなたの人生であって、私の人生ではない。これからは自分で考えねばならない。」 と彼女は言った。
マイケルは答えた、「いま僕は、自分が何をするのかわかる。これは僕の人生なのだから。」
瀬谷ルミ子にとっての、ひとつの小さな成功だった。
4
 いまや経験を積み、知識と技量を身につけた瀬谷だが、解決策を見つけるには、ただ知識や技術を持つているだけでは不十分だと確信している。
戦争や紛争で破壊された地域に、出来合いの解決策を持って行くわけではないだろう。
瀬谷は、解決策を見つけるには、人々に会って、彼らの言うことに耳を傾ける必要があると考えている。
 瀬谷はまた、過度な支援を与えることは、人々から自立する意志の力を奪うことがあると確信している。
瀬谷は言う、「私にできるのは、選択肢を作り出し、彼らを少し支援することだけです。彼らの生活や社会を何とかしていくのは、現地の人々の仕事です。」
 なさねばならない多くのことがある。
人の数は十分ではない。
十分な資金もない。
成功したことはあるが、その成功は限られている。
 瀬谷は言う、「たとえ私たちが、何か建設的なものを作り出したとしても、私たちがすべてを解決できるわけではないという状況もあると感じます。」
あなたの仕事はいつ終わるのかと尋ねられると、瀬谷は言う、「人々が、私たちに、もう必要ではありませんと告げるとき、私たちの仕事は終わるでしょう。」
 異なる文化的背景を持つ人々の苦境に対処していると、瀬谷はしばしば自分が困難にあることに気づく。
しかし、彼女にはDDRの専門家としての職業を選択したことに後悔はない。
状況が難しくなると、彼女は自身に言い聞かせる、「何かをしないことの言い訳を、決して見つけようとしてはならない。もしかすると、その問題に対する完璧な解決策を見出すことはできないかもしれない。でも、その問題の10パーセントを解決するために、何ができるかを考え始めることはできる。少なくとも、それは正しい方向への一歩だ。」
 瀬谷は、ひるむことがない。
彼女の同僚は、厳しい状況に直面しているときでさえも、彼女は感情に流されることを自分に許さない、と語る。
瀬谷は、私たちが困難にある人々に共感するだけでは不十分だと考えている。
我々は、彼らと共に選択肢を作り出していかねばならない。
結局のところ、人々は自分自身を助けなければならないのだ。

「自分の人生を設計しなさい」 瀬谷ルミ子のメッセージ
 私は、戦争被災の国で平和構築のために働くことを決意した、まさにその時を覚えている。
私は、ちょうど、今高校でこの教科書をよんでいるあなたぐらいの歳、3年生だった。
私は、社会全体に対して悲観的だった。
それは、バブル経済崩壊の直後だった。
日本経済は悪化していき、就職率は下がり続け、政治汚職のニュースが、メディアを通じてよく報じられた。
 高校最後の年の春だったが、私はまだ将来何をしたいのか、決めることができずにいた。
私は、勉強し続けるべきかどうか、また、何を専攻したらいいのかわからなかった。
私は、私の家が、経済的に私を大学へ行かせることができるのかどうか心配した。
私は、無力だと感じた。
 そのとき、私は、世界と私の人生に対する見方を変えた写真を目にした。
それは、ルワンダの難民キャンプにおけるある家族の写真だった。
その家族には、生きるという人間の基本的な権利さえなかった。
彼らの死さえ、記録されなかった。
私は無力だと感じたが、この家族には、まったく何の力も、また、どんな選択もなかった。
私は、人生は努力すれば変えられることに気づくこともなく、不満を言っていた。
私には、多くの機会と可能性があった。
努力しさえすれば、私は人生を変えることができた。
 私は不満を言うのを止め、紛争で苦しんでいる人々のために、できることをすると決意した。
その写真の中の家族は、私に世界に対する見方を変えるきっかけを与えた。
 私のあなたへのメッセージは、私が難民キャンプのその写真から得たものと同じだ。すなわち、違った見方で自分自身と世界を見なさい。
あの頃の私のように、あなたも高校生だ。
あなたにも、多くの選択肢と無制限の可能性がある。
人生をどう生きるかは、まったくあなた次第だ。
これは、覚えておくべきキーポイントだ、人は、自分の人生のデザイナーである。



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2015年04月28日

Crown E.C.3 Lesson 4

1
 アルベルト・アインシュタインや徳川家康、坂本龍馬が最近、丸の内で目撃されたことを知っていただろうか。
まあ、そんなようなものだ。
それらは、「ベンチアート・イン・丸の内2012」という、有楽町と大手町の間のベンチに有名な人々の等身大の像が置かれた展覧会の一部だった。
「私たちは人生の一部として、芸術作品を楽しむべきだ」と、そのプロジェクトの責任者は言った。
 あなたは、おそらく、絵画や彫刻、陶芸といった芸術作品を美術館で見ることに慣れているだろう。
しかし、丸の内の展覧会の目的は、芸術作品を美術館から持ち出し、私たちの日常生活に持ち込むことだった。
 丸の内の展覧会は、芸術作品と日常生活との境界線を「溶かす」芸術作品の例で、私たちを芸術家の作品に直面させ、新しい考え方の扉を開く。
 ベンチに座っているアインシュタインの彫刻は、美術館の彫刻よりも、もっと人間的で親しみやすい。
もしあなたが通りを歩いていてこのアインシュタインを見たら、どうするだろうか。
もしあなたがほかの多くの歩行者たちのようなら、彼の隣に座るかもしれない。
彼の肩に手を回すかもしれないし、誰かにあなたたちの写真を撮ってくれと頼むかもしれない。
ひょっとすると、アインシュタインがどのように世界を変え、あなたがこれからどのように世界を変えるのだろうかと考えるかもしれない。
あるいは、アインシュタインと友だちだったら、どんな感じだっただろうと思うかもしれない。
おそらく、アインシュタインの隣に座りながら、あなたは新鮮な目で見慣れた環境を見て、アインシュタインがその環境をどう思っただろうかと思いを巡らせるだろう。
そしてあっという間に、あなたは芸術作品と個人的に関わっている。
これが、 芸術家が求めていることだ。
つまり、あなたの関心を引きつけ行動を変えるようなやり方で、芸術作品をあなたの生活の中に思いがけず持ち込むことだ。
2
 ある晴れた午後、あなたは携帯電話でメールをしながらぶらぶら歩いているかもしれない。
そして、出くわすかもしれない、ホームレスの北極熊に?
 あなたは立ち止まり、見る。
あなたはもう一度、見る。
あれは本当にホームレスの北極熊なのだろうか。
ちょっと前、あなたは自分自身の考えの世界に没頭していた。
次の瞬間、あなたは全神経をまさに目の前にいるものに集中させて、とても鋭敏になる。
あなたは考えるかもしれない、「通りのここに座って、北極熊は何をしているのか。なぜ彼はホームレスの人のように見えるのか。彼はホームレスの人たちをからかっているのか。私は彼にお金をあげた方がいいのか。あれらの看板は一体何なのか。私は何をすればいいのか。」
その芸術家は、あなたをいつもの日課から抜け出させるのに成功した、つまり、彼はあなたをより深い見地で、世界と触れ合う気にさせた。
 そのホームレスの北極熊はアメリカ人芸術家、マーク・ジェンキンズの作品だ。
彼は動物や人間の本物そっくりな像を作り、しばしば許可を得ることなく、デパートの前の歩道でひざまずいているこの男性のように、それらを公共の場に置く。
インタビュアーに、「どうしてこのような芸術作品を作るのか」よ尋ねられて、ジェンキンズは言った、「私は、人々に、周りのものに疑問を持たせるのが好きなのだ、何が現実で、何が現実でないかと。最近人々は、携帯電話にとても夢中になっている。それで、私は彼らにただ顔をあげてもらいたかった。」
 環境活動家とともに活動しながら、ジェンキンズは地球温暖化に関心を向けさせるために、ホームレスの北極熊を作った。
それはまた、彼らの生息地が消滅しているので、本物の北極熊の問題にも、私たちの関心を向けさせる。
ジェンキンズは言った、彼は人々に「彼らがホームレスの人たちに共感を抱くように、北極熊にも共感を抱いてもらいたい。私たちはそれらを2つの関連した問題と見なしている。」
3
 芸術作品は私たちを微笑ませ、同時にに考えさせる。
それは、ユーモラスにも深刻にもなれる。
このページの下にある、階段に座っているとても小さな人たちの写真を見てほしい。
これらの像は、ブラジルの芸術家ネレ・アゼベドによって作られたのだが、氷でできていて、ベルリンの公共の広場に置かれ、そこで、ほとんどすぐに溶けけ始めた。
その芸術家の「溶けゆく人々」は、私たちにどんなメッセージを送ろうとしているとあなたは思うだろうか。
 あなたはこれらの小さな像は、まさにジェンキンズの作品のように、地球温暖化の危険に対する警告であると思うかもしれない。
そして確かにこの解釈は正しいだろう。
それらは、グリーンランドや南極の氷冠が溶けていることに人々の関心を向けさせた。
 しかし、アゼベドは「溶けゆく人々」のもともとの意図は、地球温暖化とはほとんど関係がなかったと言う。
彼女は環境保護活動家かと尋ねられると、違うといい、そして、「溶けゆく人々」は最初、有名な記念建造物に対する批評だったと付け加えた。
つまり、彼女は英雄たちを特徴のない像に置きかえ、永久的な石を溶けゆく氷に置きかえたのだ。
彼女は思い起こす、「そのプロジェクトは単体で始まりました、のちに、たくさんの小さな氷の彫刻が、いくつかの都市の公共の場に置かれました。その小さな像は、溶けてなくなりますが、それらの記憶は写真や見た人みんなの心に保存されます。まさに巨大な記念像に残されている偉大な英雄たちのように。」
彼女は、もっとも偉大な記念像でさえも、「溶けゆく人々」のように、最後には砕けて塵となり、消えてなくなるだろうと付け加えたかもしれない。
 2005年以来、アゼベドは世界の様々な国々に、「溶けゆく人々」を設置してきている。
そして環境保護論者たちはいまや、彼女の作品を気候変動の芸術作品として採用している。
アゼベドは、自分の作品に対する新しい解釈を受け入れている。
彼女は言う、「芸術作品の解釈は自由です。それがこの惑星における私たちの存在を脅かす重要な問題についてもまた言及できることが、私はうれしい。」

4
 西野達は、彼もまた公共の記念物と私たちとの関わりに関心を抱いている日本人の芸術家であるが、まったく異なる方法でその問題に取り組んでいる。
シンガポール・ ビエンナーレ2011の重要なプロジェクトのひとつとして、彼はシンガポールの国民的な記念像であるマーライオンの環境を変えるという考えを思いついた。
マーライオンは、ライオンの頭と魚の体を持つ想像上の生き物だ。
 西野は、マーライオンを移動させることなく、豪華なホテルの部屋に入れることを計画した。
西野がしたことはかなり驚くものだった、あるいは人によっては衝撃的でさえあった。
彼は、高さ8.6メートルの想像上の生き物の周りに豪準なホテルの部屋を建てたのだ。
 マーライオン・ホテルは公共の場をプライベートな空間に変えている。
有名な記念像がまさにそこに、ホテルのあなたの部屋の中にあるのだ。
2011年3 月13日から5月15日まで、マーライオン・ホテルは、誰でも、ホテルの部屋の真ん中の床から現れた半分がライオンで半分が魚の像のこの奇炒な光景を写真に撮ることができるよう、一般に公開された。
夕方にはそのホテルは宿泊用に営業した。
 あなたは有名な記念像といっしょに部屋で眠ることについてどう思うだろうか。
たとえあなたの答えがどうであっても、おそらく今までそのような質問をされたことはないだろう。
あなたがマーライオン・ホテルへの階段を上がっているのを想像してみなさい。
あなたはホテルの部屋に入ると、突然その像と顔を合わせるのだ。
これはあなたにどう感じさせるだろうか。
そしてホテルの部屋の窓の外をじっと見れば、マーライオンの視点から様々なものを見るという絶好の機会を得る。
あなたの世界のとらえ方が変わった。
 この企画を通して、西野は人々に、当たり前だと思えるかもしれないものや、ごくふつうに思えるものに、新しい物の見方を与えることに成功した。
これはおそらく、芸術作品が私たちにすることができるいちばん重要なことのひとつだ。
好むと好まざるとにかかわらず、それは私たちの日常生活の一部で、私たちにメッセージを送っている、「周りの世界を見なさい。気づきなさい!関わりなさい!」
脱出、突入
 マーク・ジェンキンズのような芸術家は、芸術は、公的な場所、すなわち、通りや地下鉄の駅、丸の内の公園のベンチにおいてさえ、見られるべきであると考えている。
彼らは、芸術を自由にし、それを美術館から「脱出」させたいと思っている。
 ほぼ100年前、別の芸術家グループが、同じような見識をもっていた。
彼らは、美術館には、芸術として見るに値する多くのものが入りきれないと感じた。
これらの芸術家は日常の物を、枠の中に、あるいは、台の上に置き、それらが「芸術」作品であると主張した。
彼らは疑問に感じていた。「誰に、何が芸術であると言う資格があるというのか。芸術家だろうか、それとも美術館の館長だろうか?」
彼らは、芸術が美術館「入り」するのを助けようとしていた。
 フランスの超現実主義者、マルセル・デュシャンは、これらの芸術家の最も有名な1人だった。
彼の2つの作品の写真が、ここにある。これは、彼が金物屋で購入し、台の上に置き、「泉」と題した帽子掛けと普通の男性用小便器である。
彼はまた、この「彫刻」を提示した。自転車の車輪である。
芸術家が、芸術であると言えば、それは芸術だろうか?
デュシャンは多少ふざけながらも、重要なポイントをついていた。
近年では、500人の芸術評論家が、「泉」を現代芸術で最も影響力のある作品と呼んでいる。
1917年に、なんでもない物にタイトルを付けて威厳を与え、それを台の上に置くという発想は、何が芸術であり、何が芸術でないかという社会通念への衝撃的な挑戦だった。
評論家は、ある物が、芸術作品であるためには、少なくとも、芸術家の手が加えられていなければならいと考えていた。
 しかし、今日、多くの芸術評論家は、単に物を再配置し、それにタイトルを付けることが、その物に手を加えたことになると主張する。なぜなら、それが機能または地位に対する我々の認識を変えるからである。
 ミケランジェロは石のブロックを拾って、それに手を加え、「デイビッド」と呼んだ。
デュシャンは便器を取り上げ、それに手を加え、「泉」と呼んだ。
それらはどちらも、「芸術」であろうか?
決めるのはあなただ。

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2015年04月26日

Crown E.C.3 Lesson 3

1
いつ医者になろうと決めましたか。
 子どものときに、おなかが痛かったり、熱があるときはいつも、母は、私を小児科に連れていってくれましたが、その人はたまたま、親戚のひとりでした。
どういうわけか私は、彼の医学書や聴診器に魅せられました。
けれども、私が将来の仕事として医者になることを最初に考えたのは、高校の時でした。

医師になることは容易ではないと思います。
あなたの場合はどうでしたか。
 ええ、私も例外ではなかったと言わねばなりません。
高校では、なんの部活もしておらず、さらに入試に備えて予備校に通っていました。
けれども、私は3年連続落ちて、やっと入学できたときには、すでに21歳になっていました。
いま考えてみると、試験に落ちたことは、結局は私にとって悪いことではありませんでした。
そのことが、私に医師になるという決意を固める機会を与えてくれたのです。

医学部で研修を受けたあと、あなたは医師になられました。
率業後のキャリアはどうでしたか。
 友人の多くは、大学病院の医療スタッフとして働き始めましたが、私は違うキャリアを選びました。
私は、患者との触れ合いがより多く持てるであろう一般病院で働きたかったのです。
そうすれば、外科医としての技術を磨けるだろうと考えました。
それで、一般病院での職を探しを始め、何回か断られたあと、やっと職を見つけることができました。

心臓手術後にお父様を亡くされたと伺いました。
そのことは、あなたに外科医としてなんらかの影響を与えましたか。
 はい、もちろんです。
父は心臓病を患っており、2度の手術を受けていました。
私が31歳のとき、父の容態は非常に悪化したので、人工弁を交換してもらわねばなりませんでした。
私は最初から最後まで手術に立ち会いましたが、手術中トラブルが次々と続きました。
1週間後、父は亡くなりました。
66歳でした。

2
お父様を亡くされることは、きっと大きな打撃だったことでしょう。
 はい、衝撃的でした。
私が執刀したわけではないながら、父の死に多少の責任を感じずにはいられませんでした。
同時に、外科医として何をすべきでないかを私に見せるために、父は命を犠牲にしたのだと感じました。
私の助けを必要とする多くの患者さんの命を救えるように、私は自分にできるすべてのことをして、熟達した外科医になろうと決意しました。
病院での一日の仕事が終わると、私は一晩中縫合の練習をしました。
名医について聞きつけるといつも、私は手術を見せてもらおうと彼らに会いに行きました。
私は完全に納得するまで、あらゆる質間をしました。
これらの日々以降ずっと、「一途一心」に、外科医として技術の向上に絶えず努めて来ました。

つまり、お父様の死から多くを学んだということですね。
 はい、本当に。
ご存知のように、ほんの些細なミスが患者さんを危機にさらすことがあります。
このことがおそらく、父から学んだ最も重要な教訓のひとつです。
私は、出会う患者さん一人ひとりの命に責任があるとわかっていますので、彼らの命を救うためできうる最大限の努力をしています。
「決して近道をしようとするな。自分の使命を果たせ。」 と、自分自身に言い聞かせています。
「妥協」という言葉は、私の辞書にはありません。

あなたのことを 「神の手を持つ外科医」 と呼ぶ人もいます。
それについては、どう思われますか。
 そうですね、その比喩は私には当てはまらないと思います。
本当に必要なのは「神の手」ではなくて、手術前の周到な計画と物事を計算し見越す能力です。
私はこれまで6,000以上の手術を執刀して来ました、そしてこの経験が重大な局面でどういう方策をとるべきかを見越す助けになっています。
手術では、起こるかもしれないどんな状況にも迅速かつ正確に対応できるよう、五感をフルに活用することが重要です。

3
あなたは毎日重篤(じゅうとく)な心臓の患者さんと面談し、自分の時間のほとんどを病院で過ごされています。
患者さんとの関係作りで心がけていることはありますか。
 患者さんとよい関係を築き、そうすることで彼らの信頼を得ることは、医者にとってとても重要です。
個人的には、患者さんの心音を聴くとき、聴診器を自分の手で温めてから、彼らの胸に当てるよう努めています。
そして次に、彼らに違いがわかってもらえるように、私自身の心音を聴いてもらいます。
私は、医師である私と患者さんの距離を縮めるために、これを行っています。
患者さんは手術で命を失うかもしれないとわかっていて、医師の元に来ることを理解しなければならないし、だからこそ、そのような困難な決断をした人たちに尊敬の念を持つ必要があります。

出るくいは打たれると言われます。
世界でトップの心臓外科医のひとりとして、打たれることはありますか。
 そうですね、あなたが言われた諺は、一面では真理でしょう。
出るくいが打たれるときもあるかもしれませんが、それはほんの少ししか出ていないときだけです。
そのくいが、ほかのくいより遥かに高く出ていれば、決して打たれることはないでしょう。
そうやって、若い意欲的な外科医を鼓舞できることを願っています。

どなたかライバルはいらっしゃいますか。
ブラック・ジャックとか。
 私は、大鐘稔彦作の漫画の主人公、当麻鉄彦の名をあげたいです。
当麻はどういうわけか私に、若く意欲的な外科医だった、かつての自分を思い起こさせます。
彼は、彼ができ得る最高の手術を行い、患者とその家族を幸せにするため最善を尽くそうとします。
ライバルというよりはむしろ、おそらく私がなりたいと望む外科医の理想的イメージです。

患者が常に最優先だ
 天野医師には、外科医としての特別な技術がある。
しかし、医師として成功する他の方法もある。
 外科医としての仕事を続けたかったもう一人の医師がここにいる。
学生の頃、彼はラグビーをしていて、12回骨折した。そして、そのことが彼に外科医になる動機を与えた。
1987年に医学部を卒業すると、彼は研修医になった。
「研修医の訓練は、まるで地獄のようでした。通常は、ほんの10分しかかからない簡単な手術をするのに、私は1時間以上かかりました。私には、外科医になる技術がまったく足りなかったのです。」と、彼は思い返す。
かつて彼が手術の助手であったとき、同僚の1人が彼を嘲笑して、「君は、助手ではなくて、抵抗者だ。」と言った。
しかし、この臨床経験が、最高の医師でさえ治療することのできない多くの病気や怪我があることを彼に教えた。
彼は、基礎医学研究が、現代医療が適当な処置を施すことができない患者を助けるために必要であると理解した。
1993年、彼は渡米した。
彼は患者への治療を辞め、研究に集中した。
 ほぼ20年後の、2012年、この医師は、誘導多能性幹(iPS)細胞の作製によって、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。そして、その細胞にはどんな体組織にもなれる可能性がある。
彼の名前は、山中伸弥、京都大学教授である。
山中は言う、「医師として、私はこれまでたった1人の命さえ救うことができませんでしたから、大きな責任を感じます。私は、我々の進歩を医学のために活用したいです。」と。
 しかし、iPS細胞の開発が、様々な病気に対して、すぐに万能薬を提供できるというわけではない。更なる研究のために、5年あるいは10年を要するかもしれない。
しかし、山中は言う、「私は、患者に望みを捨てないで欲しい。」と。
天野医師と山中医師は、異なる道を歩んだが、彼らには同じモットーがある。
「患者が常に最優先だ」

体調管理に 癌も克服 奇跡のハーブ iHerb アイハーブ
posted by sakai shinji at 10:42 | Comment(0) | Crown E.C.3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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